「丸山眞男年譜」 (丸山眞男集 別巻 抜粋)
「1914年(大正3年) 当歳(0歳)」
「3月。22日、大阪府東成郡天王寺村(現在の大阪市阿倍野区)に丸山幹治(侃堂)・セイの第二子として生まれる。父幹治は『大阪朝日新聞』記者で同月アメリカに派遣される。父幹治は、1880年5月2日、丸山鐵次郎、としの長男として長野県埴科郡清野村大村881番地(現在の長野市松城町清野881)に生まれる。東京専門学校邦語政治学科在学中から新聞『日本』(社長陸羯南)に投稿、1901年卒業後、新聞『日本』に入社、社説の副題の誤植を見過ごしたため二ヶ月で解雇される。『青森新聞』主筆、青森商業会議所書記長を経て1904年『日本』に再入社。編集長古島一雄、三宅雪嶺、福本日南、国分青崖、長谷川如是閑、河東碧梧桐、安藤正純、千葉亀雄、井上亀六、古荘穀らと親交を結ぶ。日露戦争の従軍記者として乃木希典率いる第3軍の旅順攻囲戦の悲惨な実情を報道したため前線から送還される。兄弟に兄鐵雄(1910年4月1日生まれ。京都帝国大学経済学部卒業。NHK音楽プロデューサー、日本コロムビア取締役)・弟矩男(1917年8月21日生まれ。早稲田大文学部中退。ジャーナリスト、評論家)がいる。7月、第一次対戦勃発により父がニューヨーク特派員となる。」
丸山眞男実父幹治の生地:長野県埴科郡清野村大村881番地(現在の長野市松代町清野881) 同住所に現在「丸山内装」が確認できるのでここが丸山眞男の父の実家であることが間違いない.
「全国部落調査」長野県埴科郡 南條 西條 寺尾
丸山幹治の生地の清野は西條・南條・寺尾の隣村. また松代城の南西にあたる. 城の南西は裏鬼門にあたり被差別地区が置かれることが多い. (例:江戸城の南西の六本木. 六本木は江戸有数のスラムから商業地として発展した街. 丹波谷坂のあたりにかつて部落解放同盟本部があった.) 被差別部落民のことを一般的にキヨメという. (清掃を生業とすることから)清野の名もそれを意味している.
赤で囲まれた部分が清野村(長野市松代町清野). 丸山の家は山のすぐ北側にあり山に囲まれて日照時間が短く農業には不利な過酷な土地. 北側には千曲(ちくま)川が流れ東側は水路で塞がれ南側は山で閉ざされている. 川に橋がなければどこにも出ることのできないまさに閉鎖部落. (江戸時代まで戦時の防御のために川には橋をかけないことが多かった. 付近は武田信玄と上杉謙信が何度も激突した川中島の合戦場) 赤丸が丸山の家.
赤丸が丸山内装(丸山眞男の父の生家).
道側から見た丸山幹治(丸山眞男実父)の家. 赤矢印の家.
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