日本赤軍の支援者の日高六郎と丸山眞男との密接な関係を示す証拠  ドキュメンタリー・ノンフィクション

丸山眞男年譜 「丸山眞男集 別巻」抜粋

「1981年(昭和56年) 67歳 1月、「日本赤軍と関係ある」としてビザ申請を拒否された日高六郎夫妻の入国を認めるよう、オーストラリア政府に桑原武夫らと要請する。」

日高六郎 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%AB%98%E5%85%AD%E9%83%8E

「戦争責任について」思想の科学研究会1956年度総会における討論 丸山眞男×日高六郎 「丸山眞男集第16巻」抜粋

思想の科学    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%AE%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A

「日高(六郎)  最初に丸山さんから出された戦争責任の分類の中でクライム、犯罪に基づく責任とエラーによる・・・・」

「丸山 日高さんが出されたような疑問は僕が「思想」に書いたものについて少なからぬ人から聞いたのですが、言葉と紙数が足りなくて誤解を招いた点は認めますけれど・・・・」

「思想の科学会議、16号、1956年11月、思想の科学研究会」

(丸山眞男集は港区立三田図書館ほか全国の多くの図書館に常備されており誰でも読むことができる.)

「追悼寸言  回想の福武直、1990年7月、福武直先生追悼文集刊行会」(丸山眞男集第15巻抜粋)    (福武直は東大の社会学者. 東大文学部社会学科卒. ベネッセホールディングス(福武書店)の福武家の縁者)

「どういう経緯でメンバーがきまったのか詳らかにしないが、いま考えてもなかなか面白い顔ぶれであり、社会学畑からは、福武直、日高六郎、それに小尾さんと協力して会の結成に働いたと思われる佐々木斐夫、というような人々が参加していた。」(小尾=小尾俊人=みすず書房創業者社長)「福武君と急速に親密になったことは、同君が日高君と共著で出した大著『社会学』1952年のカバーの袖に私が推薦文を書いたことでも想像されよう。」

丸山眞男年譜 (丸山眞男集  別巻  抜粋)

「1960年(昭和35年)  46歳」「東京大学全学教官374名の「安保条約批准反対声明」に参加。・・・・政府・自由民主党、衆議院に警官隊を導入して野党・与党反主流派欠席のまま会期50日延長と新安保条約を強行採決。・・・・日高六郎のもとめにより安保問題研究会・安保批判の会共催の岸内閣辞職要求・新安保採決不承認学者文化人集会で「選択のとき」と題して講演(後に発表)。集会後、首相官邸までのデモ行進に参加。岸首相との面会を求めて上原専禄、清水幾多郎、丸山ら50名の代表が首相官邸内で5時間待つが会えず。・・・・このころ、次男健志が通った東京女子大幼児グループ(幼稚園)の同級生の親として近くに住む三木武夫に、自民党脱党・新党結成を促すための説得を続ける。・・・・安保改定阻止国民会議・全学連などが国会へデモ行進。全学連主流派が国会突入をはかり警官隊と衝突し、東京大学生樺美智子死亡。18日、安保阻止統一行動の国会へのデモ行進に参加。33万人のデモが徹夜で国会を包囲する。19日午前0時の新安保条約自然承認の時を国会南通用門付近で迎える。・・・・長男彰、次男健志の通う明星学園PTAの時局と教育についての座談会で講演。」

「日本政治学会の「浅沼稲次郎日本社会党委員長暗殺事件に関する決議」に参加。・・・・四日間で上映打ち切りとなった映画「日本の夜と霧」(大島渚監督)の再上映運動に賛成する。・・・・『中央公論』60年12月号掲載の深沢七郎の小説『風流夢譚』をめぐり、右翼の少年が中央公論社長島嶋中鵬二宅を襲い、手伝いの丸山かねを刺殺し雅子夫人に重傷を負わせる(嶋中事件)。5日、思想の科学研究会評議員会の「嶋中事件に関する声明」に参加。18日、「右翼テロを助長させるもの」を『毎日新聞』に発表。(原題「右翼テロをつけあがらせるもの」の変更を毎日新聞の要請により了承する。)この後しばらくの間、武蔵野警察署私服警官による丸山の自宅の警戒が続けられる。6月、討論「原題における革命の論理」(佐藤昇)(『講座現代のイデオロギー1』)。東大大学院の院生たちとともに樺美智子の追悼のため国会議事堂に向かう。・・・・文部省が実施した全国一斉学力テストに参加しない明星学園の教師を、遠山茂樹らと父母の協力者集団を作って応援する。」

嶋中事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%8B%E4%B8%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6

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