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盆を気にするようになったのは若い頃、盆期間中(8/13~8/16)に四輪車で事故を起こしたこと。例年事故が多い時期として知られている。盆の期間は地獄の蓋が開くという。そういえば日航機墜落事故も盆入りの前日の8月12日、そして何より終戦が8月15日だ。

盆すら知らない日本人のために説明するが 、盆の期間中は亡くなった家族や先祖の霊が還ってくるといわれている。迎え火は霊が自分の家を探す目印にするため。盆棚(精霊棚)の牛馬を形どった野菜は、霊が乗ってきて盆明けにまた帰って行くといわれるため。野菜や穀物を飾るのはいっぱい食べてもらい満腹してもらうため。飾る食物には地域差があり夏野菜が良いが4日間飾るので痛みやすいのはよくない。南方系の野菜が多いような気がする。きのうは施餓鬼の経も読経したが、盆には家族の霊だけでなく餓鬼=亡霊や動物霊にも施しをなし、道を邪魔し災いをもたらす存在を幸せをもたらす存在に変えるという考え方がある。

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ペットのこの猫は自分の大切なパートナーであって差別(しゃべつ=仏教語)などしたことはないが、仏教的には一切に施すのが盆なので猫が盆棚に乗っても構わない。父が亡くなった直後にこの猫がやってきたが、子猫のとき父の遺骨のそばにぴったりくっついて離れず困った。猫は霊的というか不思議なところがある。

私的な仏事を見せびらかす気はないが、俺を神道信者だとかキリスト教徒だとか韓国人だとかデマを流すマスコミと地域住民への反論と、日本の美しい伝統行事を絶やしたくないという思いがある。オリンピック開催に反対した都民を反日だと雑誌で決めつけ、都民の安全と命をないがしろにした元首相反日安倍の言った「美しい日本」は偽物にすぎない。自民党はもはや日本の保守政党ではなく、カトリック信者の麻生太郎と白百合女学園卒の母親を持つ安倍晋三の「キリスト教自民党」だ。

餓鬼は空腹で苦しんでさまよっている霊のこと。やせ細って内蔵ばかり膨れた飢餓者の姿で表される。子供のことをガキというのは、餓鬼のようにいつも食べ物を欲しがることから。実は日本軍の戦死者の6割が餓死者。日本軍指導者と政治家と官僚は狂っていた、いやただ無責任だった。いつも個人が責任を取ろうとしなかった。「自分が責任取りたくない」、だから始めてしまった戦争の責任をみんなで回避。だから誰にも拡大を止められなかった戦争。だから兵站もなく「兵士をどんどん送れ!」で餓死。みんなで天皇を核にした無責任が間違っていた。餓死が一番苦しい死に方。腹切りとか特攻の比じゃない。一番現世に恨みを残す死に方。6割も餓死させたぶざまで愚かな日本軍を「輝かしい軍隊」だとか、「民族が誇るべき戦争」などというな!胸をかきむしって苦しんで死んだ餓死者を英霊などといって美化するな!呪われろ!

部隊への兵站(物資の補給)計画もなく、南方の熱帯のジャングルや離れ小島にどんどん兵士を送り込んだ戦争指揮者。食料は各自現地調達を命じただけで釣具さえ支給しなかった無責任さ。ジャングルというところは実は食料が非常に乏しい。どうやって生き延びろと?あてもなく食料を求めてジャングルをさまよい餓死した日本軍兵士。生存者は固く口をつぐむが、亡くなった同胞兵士の肉を食ったとの話も・・。(江戸時代の飢饉では食人は現実にあった)

この無能で無責任な日本軍の指揮者を合祀する靖国神社を肯定することは絶対にできない。指揮者が無能だから日本は戦争に負けたのであり、誰であっても、左であっても右であっても、敗戦の責任と、350万戦死者と餓死者に対する責任に目をつぶって、指揮者を美化して神格化している靖国神社の存在を絶対に許してはいけない。安倍の祖父の戦犯の岸信介(満州国大臣)の如き輩(やから)や巣鴨プリズンの戦犯は、絞首刑ではなく餓死させればよかった。

もし霊というものがいて(俺は本当にいるとは思っていない)、現世に何事か影響するとしたら、それは太平洋戦争の350万戦死者をもってほかはない。戦死者の霊の巨大さに比べて、大昔の天皇霊だとか、甘えで自殺した丸山健士の霊だとか、ホモの快楽殺人プレイで自殺した三島由紀夫の霊だとか、大本教の出口の霊だとか、もしいたとして屁にもならない。戦死者をどのように供養するかによって、日本の将来は変わってくる。日本人が靖国に参って戦争を賛美しているようでは、餓死して無念を残したあまたの戦死者は、日本の滅亡を願うだろう。異国のジャングルで餓死させられた日本人が、日本と軍部と天皇に感謝するはずがなかろう。

2005年赤旗https://www.jcp.or.jp
/akahata/aik4/2005-09-24/2005092412_01faq_0.html

wikipedia 「ニューギニアの戦い」(兵士の生活、日本側)から引用:「物資と補給能力が乏しかった日本軍では、短期決戦を重要視した戦略の基本だったため、食料などの物資の補給は、もっぱら現地調達だった。しかし、日中戦争と違い、人家や田畑が少なく、ジャングルが広がる南方戦線では、食料を徴発することもできず、獲得するのに苦労した。ニューギニア戦線での各部隊の任務としては通常の兵隊業務に加え、耕作や食料採取が任務となっていた。ごく短い期間のみ戦闘携帯食(陣中餅、乾麺包、砂糖、内容240グラムサイズの魚および牛の缶詰、麦飯、粉醤油、粉味噌などの即席食品類など)を主として、補給がされないまま少量のコメ、さご椰子澱粉(幹から採取する。『サクサク』という)、タロイモなどのイモ類、椰子の実、バナナの果実類は言うに及ばず雑草を糧とし、他にヤモリ、トカゲ、コウモリ、ワニ、ノネズミ、ヘビ、イボガエル、モグラ、ノブタなどの動物、ゲンゴロウ、トンボなどの昆虫を採取していた。特にヘビ(刺し身・串焼きなど)、ワニ(鉄板焼き)、イボガエル(スープ・肉フライなど)、ノネズミ(丸焼き)、ノブタ(丸焼き)などは希に採取される機会がありスタミナ食として珍重されたという。戦闘末期、海上封鎖によって、物資の補給が途絶えると完全に自給自足の生活を余儀なくされた。また、地域や部隊によっては、人肉食や個人的な原住民の交流などから真水や食料の取得方法を教えてもらうケースもあった。」

wikipedia 「ガダルカナルの戦い」(環境 日本軍)から引用: 「ガダルカナル島の戦いは日本の継戦能力の限界を超えた状況となっており、11月24日にはある将校が「そこら中でからっぽの飯盒を手にしたまま兵隊が死んで腐って蛆がわいている」旨を大本営に報告したが、撤退は未だ決まらなかった。1か月後の12月31日になって日本軍はようやく撤退に向けて動き始めたがこの間にも多くの将兵が餓死していった(これはガダルカナル以降、補給の途絶えた各戦場で見られた現象で、ある生存者はジャングルを「緑の砂漠」と表現した)。ほとんどの部隊では、ふらふらと何とか歩ける兵士はすべて食糧の搬送に当たり、陣地を「守る」のは、立つこともできなくなった傷病兵という状態に陥っていた。そういう中で、やっと手に入れた食糧を戦友のもとに届けようと最後の力を振り絞り、背中に米を担いだまま絶命する兵士も現れれば、食糧搬送の兵を襲って米を強奪する兵士も現れる状況になった。また、戦いも末期になると孤島に封じられ、食糧の欠乏が深刻になると軍紀の荒廃は極まり、飢えた兵士の中からカニバリズムも発生したとされ、ガダルカナルからの帰還兵の話として、日本兵狩りについて触れられている。こうした軍紀の乱れは「遊兵」と呼ばれるどの部隊にも属さない兵を生み出し、日本軍の組織的戦闘能力の減耗を加速させた。 」wikipediaからの引用終わり。

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