1989年に書かれた「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」 晩年に天皇制を否定していた丸山眞男. 潜在的に日本人の自立と独立を阻んでいる天皇制

昭和天皇が膵臓ガンにかかりいわゆる「自粛」でマスコミ各社ほか日本全体が萎縮していた1989年正月の7日、昭和天皇がついに崩御したことを受けてその24日後の1/31に書かれた丸山眞男の「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」. すでにこのとき俺は丸山眞男に会っていたが内容について知ったのは眞男の死後のことだった.

「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」(抜粋)

「1940年6月に私は東京帝国大学助教授の辞令をもらった。むろん奏任官であるが、私には月給が助手時代の60円から一挙に120円にはね上がったのがいちばんうれしかった(ちなみにこの独身の助教授時代は世相はべつとして経済的にわが障害の最良の日々であったといえる)。間もなく叙七位という位記が届いた。浄土真宗の篤い信者であった母はさっそくそれを仏壇にあげて手をあわせた。父は一瞥するなり顔をあげてハハハと哄笑し「お稲荷さんにはまだ遠いな」といった。いうまでもなく稲荷大明神は正一位だったからである。はしなくも息子の官位とか出世とかにたいする父と母の対照的な反応がそこに現れていた。・・・・霊験あらたかと感じたのは助手時代にはまだ毎年の行事だった特高の来訪や憲兵隊への召喚がパッタリと止んだことである。」

(稲荷神は渡来人の秦氏が日本に持ち込んだ外来神であり渡来人の信仰対象であるため神格は最も位が低い正一位とされどこにでもあるので「稲荷神社と犬の糞」と江戸町民にいわれてきた.  父の幹治が政府から授与された眞男の位を「稲荷より低い」と皮肉っている)

「理由はよくわからない。どこかで何らかの方法で監視されていたのかもしれないが少なくとも露わな形ではなくなった。のちに太平洋戦争勃発後に一度、憲兵隊に召喚されたことがあるが、これは流言飛語容疑であって、どうも以前のブラックリストとは直接に関係なく、つまり「別件」によって呼ばれたもののようである。」

「帝大に天皇の「行幸」があった。高等官には拝謁を賜うとあって、当日は父からフロックコートと山高帽を借りて出かけた。拝謁というと大げさだが、なにしろ帝国大学というのは、諸官庁のなかでも高等官がワンサといるところである。指定された安田講堂に入って見ると、拝謁を賜う高等官で講堂はギッシリ埋まっていた。やがて時が来ると昭和天皇は海軍大元帥の軍服姿でゆっくりと壇の左手から登場し、中央で一同の方を向くと、私達の最敬礼にたいし顔をまわしながら挙手の礼をもってこたえ、右手にまたゆっくり去っていった。「拝謁」とはただそれだけのことであった。・・・・戦後の天皇の全国巡遊で、民衆にたいし中折帽をとってバカの一つ覚えのように「あ、そう」を繰り返す猫背の天皇をニュース映画で見たとき、これがあの安田講堂なり運動場なりでじかに見た堂々とした天皇と同一人物であるとは私には容易に信じがたかった。」

(高等官=高級官僚のこと. 東大はそもそも高級官僚養成のために作られた大学で今もそれは変わらない. 成績優秀者には卒業時に天皇から金時計の授与があった.)

「敗戦の翌年2月頃に、私は創刊されたばかりの雑誌「世界」に吉野編集長の委託によって「超国家主義の論理と心理」を執筆し、これは5月号に掲載された。この論文は、私自身の裕仁天皇および近代天皇制への、中学以来の思い入れにピリオドを打った、という意味で ー その客観的価値にかかわりなく ー 私の「自分史」にとっても大きな画期となった。・・・・敗戦後、半年も思い悩んだ揚句、私は天皇制が日本人の自由な人格形成 ー 自らの良心に従って判断し行動し、その結果にたいして自ら責任を負う人間、つまり「甘え」に依存するのと反対の行動様式をもった人間類型の形成 ー にとって致命的な障害をなしている、という帰結にようやく到達したのである。1989年1月31日」

(敗戦の翌年にタイムリーに英文で同時に発表され丸山眞男の名を世界に知らしめた「超国家主義の論理と心理」. 眞男が命名した超国家主義=ウルトラナショナリズムの語は世界を席巻しその後米軍が日本軍の指導者を戦犯として追及するため多用された. 丸山眞男を発掘し世に出したのは岩波書店の著名編集者の吉野源三. 丸山眞男はアカデミーの学術論文によってではなく大衆向けの雑誌「世界」に掲載した一文で有名になったのであり眞男の恩人の吉野に足を向けて寝られないはず.)

眞男は次男健志の自殺に衝撃を受け, その原因に甘えがあることをみて上記の認識に至ったのだと思う. 三島由紀夫・太宰治・川端康成らの単なる失敗者=自殺者を礼賛し, 未熟で幼稚で甘えた「負け組」を称える下等で異常で病的な日本文学者の存在とそれを好む怠惰な日本人文学ファンの存在を思えば, 丸山眞男の「甘えた日本人を作る原因は天皇制にある」の説はまったく妥当だと思う. 日本人全員が「天皇の子」として幼稚で未熟な精神を持った子供のままの弱い個人でいることを天皇制が潜在的に好み従順な羊のような天皇崇拝者でいることを要求している. そこに集団=全体ではなく個人で判断し行為を選択しそれに各自が責任を負うことが前提の戦後民主主義の失敗, 特に明星学園のような民主主義教育の失敗の原因があるのだと自分は痛感する. 

 

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