(7/31 6:56) 警察は本気で俺を拘束しようとしている.

心理的拷問をやめない就寝中の送信者はやはり警視庁公安部の大内純子だと判明した. このマンションにいる. 地域も天真寺も警察の側だ. 大内に裏切られたことは許せないが驚きはない. 同窓生や身内や大石一族まで全部敵に回っているので他校生の朝鮮人(百済人)の大内ごとき信用できないことはわかっていた. しかしここまで俺に強い憎しみを持ち非人間的なサディストになれると予想できなかったことは自分のミスで甘かった. 大内に限らず東洋英和や青山学院というメソジスト派(規則最重視派)とカトリックの教育は教師や警察のロボットを作る. 洗脳されているとしかいいようがない. 教師に従順な羊にされてさらに猛犬にされたようなのばっかりだ.

大内を拒否することは皇室の女との結婚に同意したことにはならない. 結婚の強制に対する実力行使はやめない. 強制するなら問答無用でその皇室の女を殺す.

今までずっと独身で生計を立て生活してきた男が性的不能の60歳になって若い女と結婚させられなければならない理由はまったくない. 女は信用できない. 一生童貞で独身で暮らす. 身と心を汚して自らの超能力を失うようなことはしたくない. 日本では西欧のように男が必ず結婚しなければいけないという価値観がない. 江戸時代の武士でも結婚できたのは裕福な者のみで浪人となった赤穂義士の約半数は独身だった. 日本人はカトリックやプロテスタントのキリスト教徒に結婚を強制されない. 日本のキリスト教徒は人口のわずか1%に過ぎない. 

預言とは誰かから言葉を預かって述べることであって未来を予知する予言とは異なる. 預言預言が必ずしも未来を予知しているとは限らない. 憑依した心霊は猫であるかもしれないからそれが必ずしも未来を予知できる能力を持つ神仏であるとは限らない. 俺はキリストやムハンマドの預言をしているなどとはいってない. 恐山のイタコは預言者ではないしキリスト教徒ではないしキリストから言葉を預かって述べてない. 自分は36年の投資経験に基づいて相場を理論的に経験則的に予想していおり予知能力は使ってないし予言をしたことも一度もない.

(8:09)「富山・立山で事故」の記事うるさい. 城内中出身で少林寺拳法をやっていた富山(とみやま)うるさい. チャンバラで勝てたのは剣道の腕であって竹刀を使わない少林寺拳法は全然関係ない. 富山はチャンバラで勝つことはできない. 卒業以来一度も会ってない富山と結婚することもありえない. 川勝知事と静岡県人のいっていることは非常識でおかしい. 静岡県人が日本の鼻つまみになっていることが見えてない. (立山は静岡市の東海大付属小の校長の名前と同じ) 近くでチャンバラ教室をやったから娯楽で参加しただけであってこの歳になって武道をやる気はまったくない. スポーツチャンバラも少林寺拳法も剣道も合気道もやらない. あと10年生きられるかどうかもわからないのにそんなくだらないことはやらない. 風を吹かせる能力は日本武道とまったく関係ない.

反日売国の警視庁公安部はカトリックの強制やめろ. 俺の超能力を所有したがっているローマ法王は入信の強制やめろ.

(23:59)先週俺が黒澤明の批判をすると「黒澤映画の舞台版に出演している欅坂の小林なんとかがサックスを習った」という記事でサックスが趣味の豊吉さんとつなげて仏教と俺を芸能界にこじつけようとするのをやめろ. 

あと孫のアイティーメディアのねとらぼが「武蔵野美術大が選ぶ見ておきたい映画」とわざとらしく書いている. その中で黒澤映画やスピルバーグのジョーズやディズニーのファンタジアを選んでいる. いずれもみんなよく知っている通俗的なヒット作で今更美大生が選ぶ映画ではないし選んだ人間の映画体験の底の浅さがうかがわれる. スピルバーグの「脅かし映画」を選ぶならジョーズではなくそのネタになった激突だし(ジョーズは激突の二番煎じ)ディズニーの戦時中の映画ファンタジアはアニメと音楽(クラシック)を完全に同期させる手法は戦時中にしては驚異的だが今見ると平凡でわざとらしい. ディズニーの歴史的な作品を選ぶなら蒸気船ウィリーを選ぶべきだろう. それに今やるならファンタジアでなく「ミッキーのニーベルングの指環」とか「ミッキーの歌のマイスター」(ミッキーのマイスタージンガー)とかオペラをやるべき. 子供でも理解できるしネオナチやガソリン車メーカーのプロパガンダに使われなくてよい. どんどんオペラをディズニー化してクラシックの虚構の権威を剥ぐべき.

黒澤明と日本映画界は戦後もウダウダとモノクロ映画ばかり撮るマンネリだったが戦時中にファンタジアのような画期的なカラー作品を作ることができたアメリカと戦ってしまった全体主義国家日本の愚かさを改めて思うべき. 黒澤明は戦時中に日本軍に協力してモノクロのプロパガンダ映画を撮っているが戦時中のウォルト・ディズニーのと比べると未開土人が作った映画のよう. 国力が違いすぎたが・・・・だから先制攻撃した日本人は愚かなのだが・・・・ 

かつて吉祥寺の丸山眞男自宅の隣にあったのが武蔵野美術大の専門学校. だから武蔵野美大と丸山一派はつながりがある. 武蔵美生がそんなに丸山が好きならもう美術はやめて音楽や文学をやったら?丸山を選ぶ美大生に審美眼があるとは思えないよ. 保存されている丸山眞男の吉祥寺の自宅を見ればわかることだがただの建売の平屋で建築デザインや家具調度にまったく関心を払ってない眞男に美術の才能はなかったことがわかる.

今も残る吉祥寺東町の丸山眞男の自宅. 金持ちではない左翼だった.

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しかし著書の印税収入は別. 眞男は1960年代に「日本の思想」で儲けて下田に別荘を買った.大学の教科書に使われ今もベストセラーに入って利益を生み続けている. 慶大生の教科書にもされている「文明論の概略を読む」のベストセラーを含む眞男の印税はすでにゆか里も健志も死んだので長男の丸山彰が全部受け取っている. 彰は左うちわの生活で彰の孫の代まで眞男の印税で食って行くつもりだ. 同様に黒澤明の映画が再公開されたりリマスターDVDが販売されるたびに井川大輔の父親の俳優の井川比佐志にも隣接著作権ががっぽり入る. こういう既得権益者が黒澤明や丸山眞男を神格化し繰り返し黒澤黒澤丸山丸山と連呼し広めている. カビが生えたような黒澤明の白黒映画やカストリ雑誌レベルの政治雑誌の丸山眞男の著作を繰り返し再販してだれが儲けているのかよく考えること.

丸山彰

天然パーマの少年が丸山彰. 左がその父の丸山眞男. やはり強いクセ毛. アイヌのよう.

 

強いくせ毛を持つのがアイヌの特徴

丸山眞男の頭髪によく似たアイヌ人の頭髪

(8/2 9:15 追記)明治時代の帝大(東大)の歴史学者・民俗学者で被差別部落研究家の喜田定吉によれば被差別部落民を指すエタとは正確にはエッタでありエッタ族(オロッコ族・ウィルタ族)のことだという. オロッコは樺太の先住民のことで北海道に住むアイヌとは親戚のような関係ににある. 江戸時代に蝦夷地(えぞち)を探検した間宮林蔵はオロッコ夷(えびす)と呼んでいる. 古来より蝦夷(えみし)と言われてきた人々はこのオロッコ・アイヌのこたとであり朝廷の命を受けた武士が蝦夷征伐を行った結果蝦夷は追われて不便な住んだのだという. そこに罪人や無宿者が流入して部落が成立したのだという. 喜田定吉の本は著作権が切れておりネットの青空文庫で無料で読める. 夏目漱石や森鴎外ら有名作家・学者の本もここで全部無料で読めダウンロード自由なのでもう本を買わないこと. https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html#sakuhin_list_1

アイヌ人

ねとらぼの孫正義は南麻布の住民に同じてゴミのアイティーメディアで俺を攻撃せずにちょっとは金をみなと子ども食堂に寄付して港区民に尽くしたら?会社が大損したというが1億円くらい小遣いはあるだろ. 

しかし豊吉さんはスポーツチャンバラのプロの講師だしサックスもプロ級だとのことで将来住職になるには変わった人ではある. 

7/23から変な若い夫婦(和歌山県人という)が天真寺の座禅会に来ていて休み時間も私語が厳禁のはずの座禅堂で地元和歌山の話題とかを関西弁でべらべらしゃべった. 豊吉さんと友人のようで何も注意されなかった. しかし非常識. キリスト教徒の感じ. きのう7/30も来ていて帰りがけに何か大声で豊吉さんとしゃべって俺に聞かせようとしているとわかっていたので急いで寺の玄関から出るとその長身にひげ面の和歌山県人が後ろから威嚇するように自転車で来た. やはり俺が標的のようだ.

座禅中は動いてはならず他の人がどのように座っているか今までわからなかったがみんな変なやり方で座っていた. 臨済宗で決められている手をへその下で組んで座る日本式(法界定印)に座らずに腕を広げて手を膝の上に置くインド式のやり方で座っていた. まあ豊吉さんは座禅会の前にヨガ教室を開いていてそのままヨガに来た人が座禅しているので仕方ないが臨済宗大徳寺派の天真寺はインドの寺ではないしハレクリシュナや幸福の科学やオウムやカトリックのドミニコ会ではないはずなのでこれはいただけないと思った. 臨済宗の寺院は布教の一環として座禅会を開くが非仏教のヨガ会を開く場所ではない. 他に座禅会をやっている臨済宗の寺もあるのでもう天真寺には行かないのが賢明と判断した. 宗教というものは修行や祈りの形式を厳格に守り続けるべきでそれを変えてしまえば宗教そのものが変わってしまう. 日本の武士文化が快楽殺人マニアでサムライプレイが好きだった三島由紀夫のゲイ文化にすり替えられて日本武士の精神が失われてしまったように, 日本文化を少しづつ俗悪に西欧風にマイルドに変えて行って換骨奪胎してしまうというのがキリスト教徒のこれまでの日本侵略のやり口であった.

黒澤明についていえばくだらないとしかいいようがない. 黒澤や小津安二郎のモノクロ映画をいまだに見させている日本映画界や評論家が腐っているし無能だとしか言いようがない. 金をとって観客に見せるなら画質は少しでも美しくあるべきで汚い荒れたモノクロ映画を見せて客に苦痛を味あわせる監督や評論家は客を舐めている. 先日アンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」を約40ぶりに見たが主人公がラストシーンで干されたシーツに寄りかかって苦しむシーンが今見るとおかしく見るに耐えない. 胸とシーツにインクのような黒い色が広がっていくのだが主人公が倒れて「あ、それ血の色だったんだ」と気づく. モノクロ映画とはすべてこの調子で観客に想像することを強制する. カラーのようには一見して何が映っているかもわからないのがほとんどだ. 色情報は形情報より重大でバナナは黄色くて初めてバナナと認識できるしイチゴは赤くてイチゴだと認識できる. それがモノクロだと何かを一見で認識できずワンテンポ遅れて頭で多分バナナやイチゴだろうと認識する. モノクロしかない時代なら仕方ないが美しい画質で撮れるこの時代にわざわざモノクロで見せる日本映画界は退歩しているし堕落している.

テレビ放送網が未発達だったインドやイランでサタジット・レイやアッバス・キアロスタミの映画を繰り返し上映するのは意味があっただろうが日本で黒沢や小津や溝口の映画ばかりわざわざ汚い映画館で上映するのは間違っているし恥ずかしい. コロナ感染の心配もあった映画館にわざわざ足を運ばせようとするのも断末魔の映画館が生き残りをかけてマスコミやバカ評論家や作家に書かせているだけ. どんな恋人同士だって西陣(京都)の映画館(千本日活)のように汚れたティッシュが落ちているかもしれない映画館ではなく自宅の大画面で食事しながら見たいはず. だからモノクロ映画が好きだといってる連中は映画評論家や小津映画がいいといった丸山眞男をいいといっているだけで本当は映像作品が好きではないのだと思う. もうとっくに償却が終わってボロ儲けの丸山眞男の岩波の本や投資額ゼロの黒澤明映画ばかり広めて安直な既得権益にこだわる日本映画産業など潰れるべきだと思っているしそうなるだろう. かつて大手5社体制だった日本映画界がテレビに押されて大映と日活が倒産し今の松竹・東映・東宝の3社体制になった時点で日本の映画産業は終わっていた. 黒澤明もこの事情を理解していて他に頼む人がいないから新進気鋭の韓国人漫才師のビートたけしに「(もう終わりだけれど)日本映画界をよろしくお願いします」といったに過ぎない. それが黒澤の後継者面して井川大輔と一緒になって俺を弾圧してきた. 井川は井川より武術もできるし録画もできる俺を排除して盗撮し無断配信して警察の弾圧に加担してきた. その北野の映画を俺は見ようとは思わないし金払って見るものではないと考えている.

バカ兄は映画評論が好きなだけでキネマ旬報に絶賛されていた映画がかかれば観に行くが普通の客のようにポスターを見て決めるとか好きな俳優のを見に行くということはまったくしなかったので観た本数はごくわずかだ. 静岡のSBSテレビの深夜の名画番組でキネマ旬報ベスト1のシドニー・ポワチエのとかロバート・レッドフォードのとか真夜中のカーボーイとかを見てそれを自分が見つけたかのように評論文の通りに友人の渡辺久芳(渡辺モータース・慶応大)やゲイの平口康成(慶応大・島田市出身)や山梨秀人(早稲田大・山梨塾)に自慢していただけだ. 兄は映画評論という文学が好きなだけで動画が好きではなく俺のように8mmやビデオで自分で動画を撮ろうとしたことは一度もない. 

鷺宮高校時代から井川大輔より映画に詳しい俺を井川は嫌っていた. 映画の話をすると井川が不機嫌になるのでしないでいた. 俺は清水東高校で映画部で文化祭向けに8mm映画の主演をし録画し編集したこともある. 現在東京都北区上中里で歯科医をしている竹内嘉苗の親戚が静岡市清水区の新清水駅の裏で竹内内科をしているがその隣に昔名画座があった(清水年金事務所の場所). 清水東高の放課後にそこで毎日観ていた. 京都時代は近所の左京区一乗寺の京一会館(今では伝説化している)によく行ったし東大路の祇園会館の名画座でよく見た. しかしそれはまだビデオがなかった時代のことでビデオデッキで世界の名画を見ることができるようになってからはまったく行かなくなった. 映画は内容で選ぶもので映画館やスクリーンの大きさや椅子で選ぶものではない. 映画は個人に一対一で訴えるものであり演劇のように集団の観客に訴えるように作られるものではないし演劇のように集団の感動を必要としていない.

 

 

 

 

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