東海大を創立した独裁者松前一族とは?

熊本県上益城郡嘉島町(かしままち)生まれの東海大の創立者の松前重義は東北帝大(東北大)卒で電波工学を専攻した工学者で政治家。戦前に逓信省の電波技官を経て大政翼賛会の右翼政治家となる。戦後アメリカ軍に右翼の危険人物とみなされ公職追放されるが、変わり身の早い風見鶏でコウモリの松前のこと、すかさず左翼に転向し社会党右派から立候補して衆議院議員に当選、その後東海大学を設立。息子の松前仰も社会党議員。東海大付属小のある静岡市清水区(旧清水市)は東海大の前身となった航空専門学校(清水区の灯台前の清水飛行場)のあった場所で東海大建学の地。松前重義はソ連・東欧・北欧(特にデンマーク)かぶれで、小学校の制服は男子だけでなく女子もソ連か北朝鮮を思わせる赤いネクタイ。ソ連のピオニール(共産主義少年団)のよう。松前重義が内村鑑三の弟子でキリスト教徒というのはまったくの嘘。在学中そんな話はまったくきいてないし、学校でクリスマス会を一度もやってない。子供はプレゼントもらえるのでクリスマス会を結構喜ぶが、東海大ではまったくやってない。餅つきなどの正月行事もなかったし、剣道場(武道場)には神棚がなかった。盆や墓参のすすめなど仏教行事もまったくもなかった。それは松前がソ連かぶれの社会主義者だからであり、ソ連・東欧の学校を模倣しており、共産圏がそうしたように宗教を否定していた。俺の小2の時の担任の遠藤初枝は、研修旅行と称し、ソ連に1か月近く行っていた。米ソの冷戦が激化していた時代で日本人の共産圏への渡航は厳しく制限されていたが、文化友好の名目で教師や柔道家やクラシック音楽家は行き来していた。(その多くがスパイ任務を帯びていたという説がある)清水区(旧清水市)には私立小は東海大と星美学園(サレジオ)しかなく、宗教系に行かせるのが嫌な親が東海大小を選択していた。しかし何よりも親たちは東海大小のスクールバスと制服を気に入り、見栄を張りたくてこどもを行かせたにすぎない。東京の東海大の教師が教えるのかと思いきや、退職した清水の公立小教師の寄せ集めで、授業は公立小よりレベルが低かった。東海大小に行かせた多くの親が、内部進学先である東海大中高(旧東海大工業高、現東海大翔洋中高)、東海大海洋学部(東海大清水校)に行かせるのを嫌がり、勉強ができる生徒はほとんど外部の公立中に進学した。最終的に清水市のトップ高校の静岡県立清水東高に合格できたのは俺と佐倉伸洋と竹内嘉苗の3名のみであり、自宅近所の市立辻小、私立江尻小でも10名近く合格しているを見た父は、「勉強させるために東海に行かせたが間違っていた。悪かったな。公立小に行けばもっと簡単に東高に受かったな」と素直に俺に言った。電波技官だった松前重義は電波行政に顔が利き、FM東京(旧・東海大望星通信高校局)を設立した。放送界には東海大関係者が多く、重義の三男の松前仰はNHKに入局後、社会党から衆議院議員に当選した。社会党シャドーキャビネット官房副長官、郵政政務次官を歴任した。重義の長男の松前達郎は東北大学工学部金属工学科卒業。首都大学野球連盟の会長ならびに高野連の最高顧問および全日本大学野球連盟の顧問。日本対外文化協会および日本ブルガリア協会の会長、を務め、エフエム熊本の取締役も務める。 日本対外文化協会は柔道と野球でソ連・東欧諸国との友好を計る目的で松前重義が設立したが、ソ連のKGBのスパイ団体であるという指摘がなされてきた。アメリカに亡命した元KGB工作員のレフチェンコは、KGBのエージェントの1人として、日本対外文化協会事務局長だった杉森康二(コード名・サンドーミル)の名前を挙げている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%AF%BE%E5%A4%96%E6%96%87%E5%8C%96%E5%8D%94%E4%BC%9A
重義の次男の松前紀男は東京芸大を卒業した音楽家、作曲家、東海大学長、松前国際友好財団理事長やWOWOW=日本衛星放送取締役、エフエム東京取締役、札幌コンサートホールKitara館長。フランスのストラスブール大で社会学博士。クラシック強制の元締めはこいつであるのが確実。妻澄子方の義父は鳥取の華族の池田清就。華族の池田で池田大作と皇族を結ぶ人物が紀男であることが確実。紀男で紀子も。

東海大は元々工学系の大学であり、東海大医学部と工学部が、人間に機械を埋め込むなどのサイボーグ化とトランスヒューマニズムの人体実験を最も好む大学でることは疑いない。東海大医学部病院は全国初安楽死を強行した人権無視の病院として悪名高い。

松前氏とは江戸時代に蝦夷地(北海道)を支配しアイヌとの交易を独占した大名の蠣崎氏(松前氏)のことで、アイヌとの混血士族だといわれる。アイヌとの混成軍で戦功をなしたので豊臣秀吉に認められ、その後徳川家康に謁見して名を蠣崎からアイヌ語の地名マトゥマエにちなんだ松前を与えられ、以後松前氏を名乗った。松前重義は熊本出身だが東北大出身であることや、いち早く北海道に進出して北海道東海大中高を作っていることから蝦夷地の松前氏と関係が深いと思われる。東海大小の卒業式の謝恩会に松前重義がやってきて、全員と握手したので至近距離で見たが、変わった風貌の人だった。赤黒い顔で、目が酒に酔ったときのように腫れぼったく見えた。「もう酒が入っているのかな?」と思ったが、子供の会なので酒はなかった。修学旅行は北海道で、アイヌの白老(しらおい)部落を訪ねて木彫りのクマを作る様子を見たりムックリ(口琴)を聞いた。後年、北欧の先住民族も口琴を使うのを知って、ユーラシアの果ての先住民同士で文化的に近いのかもしれないと思った。当時東海大では北欧少数言語学部があり、重義の北欧先住民への関心の高さを示していた。

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