エタ(穢多)=オロッコ族(ウィルタ族)説を述べた喜田貞吉の著書『エタ名義考』(1919年7月10日発行)の抜粋

(2023/11/07 12:44)

『エタ名義考』  喜田貞吉著 1919年7月10日発行抜粋

四、エタはオロッコ族の称か

右の二つの疑問のあることから、試みに憶説を述べるならば、自分はこれをオロッコの種族名なるエッタに持って行って見てはどうかと思ふ。オロッコは今は樺太島に居る少数の住民たるに過ぎないが、自分は彼らがかつて北海道本島にも住んで居たと信ずるものである。斎明天皇の御代に阿倍比羅夫が征伐した粛慎や、養老年間に渡島津軽津(わたりじまのつがるつ)の司諸君鞍男(つかさもろのきみくらを)が調査に行ったった靺鞨といふものは、このオロッコ族であったと解して居るものである。しかして彼らは、アイヌが石器時代に近畿・中国・九州などにまで居た様に、かつては内地にも居たことがあったのではないかと疑って居る。粛慎の石器使用の事は支那の史籍に著名の事ではあるが、自分は日本の石器時代の遺跡中に、或いは彼らの遺したものがあるのではないかと疑って居るのである。勿論彼等がかつて内地に居たとしても、或いは夙に北に退き、若くはアイヌ等に同化して、その踪跡を失ったに相違ない。併し其の中には取り残されて、時に山中の異俗として、或いは祖先以来の浮浪の風を存して山家(さんか)の様なものになって、後世に遺ったものがないとは言へぬ。而して彼等は、北海道の土人が自分等をかつてカイと云ひ、現にアイヌと云って居る様に、自分等の族をエッタと呼んで居る事は注意するの価値があらうと思ふ。なほ念の為に北方民族の言語に精通せらるる金田一文學士(=アイヌ語研究で著名な東大の言語学者の金田一京介のこと)に対して、この事を照会した所が、彼等が実に自己の族を、エッタ若くはイエッタ・ウエッタといふ風に呼んで居るとの回答を与えられた。されば若しこのエッタが浮浪民か何かの形で内地に遺っておって、それがだんだん里慣れして来て、木工や掃除の為に里人に雇われる様になり、しかもなほ依然エッタの名で呼ばれて居たとしたならば、其の名が職掌の類似からして、他のキヨメ即ち掃除人足や、河原に小屋住居をして居る河原者などにも及んで、塵袋や壒嚢鈔の著者をして、其の説明を為すのに必要あるに至らしめたものと解して見るのも、また面白からうと思ふ。粛慎は無論肉食に慣れた民族である。その遺孽(いげつ=異児)たるエッタが、また肉食を辞しなかったことは言うまでもなかろう。ここに於いて餌取(えとり)屠者の類、乃至皮田の職人等が、其の同じ触穢の禁忌を犯した所から、彼等の同類に見做されるるに至ったのも、蓋しまた自然の成行であろう。即ち自分の憶説では、エッタとはもとオロッコ族の名であった、が其の名が他の肉食の俗を有するものの名に呼ばれ、遂には他の多数の流れを合したものの名称になったのではあるまいかと言うのである。

喜田貞吉著『エタ名義考』の抜粋終わり

粛慎(しゅくしん)・靺鞨(まっかつ)は中国東北部・沿海州に存在したツングース系民族の国家のこと。北海道や日本海沿岸と交易した。

喜田貞吉が死去したとき東大の差別主義者の丸山眞男は25歳。

wikipedia『 喜田貞吉』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E7%94%B0%E8%B2%9E%E5%90%89

部落差別は家柄の差別にとどまらず人種差別である可能性がある。

 

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