18:30 さっき白金高輪の音楽教室ミナトの前を通ったからと俺がクラシックを受け入れたとデマ流すのやめろ。風を吹かす超能力の手がピアノや指揮の手でクラシックをやると超能力者になれるという全くの嘘を流布するのやめろ警察と小澤征爾。この道両側に音楽教室があるので困る。クラシックなんて普段全然聞いてないし他のも音楽嫌いなので全く聞かない。クラシックは白人至上主義の宗教音楽なので日本人は聞いてはいけない。黒人の指揮者やピアニストがいないのが人種差別の証拠。
昭和天皇崩御の23日後に発表された丸山眞男の『昭和天皇をめぐるきれぎれの回想』に「浄土真宗の篤い信者であった母はさっそくそれ(眞男の東大の初任給)を仏壇に上げて手を合わせた」とはっきり書かれている。キリスト教徒ではない。
岩波書店『丸山眞男集』に収められた『丸山眞男年譜』の抜粋
1933(昭和8年) 19歳 四月、10日、本郷仏教会館で開催された唯物論研究会総会記念第二回講演会を聴く。戸坂潤が開会を宣し長谷川如是閑が挨拶を始めるや否や、本富士警察署長から解散を命ぜられる。聴衆の一人であった丸山は元富士署に検挙・勾留され、特別高等警察の刑事の取調べをうける。押収された丸山のポケット手帖のドストエフスキーの『作家の日記』を引用した国体に関するメモをめぐって、特高刑事からビンタを食らう。留置場の同房に戸谷敏之がいた。以後、思想犯被疑者として大学1年の4月には大学学生課から呼び出され、大学2年から東京帝国大学法学部助教授に任ぜられるまで、定期的に特高刑事の来訪や憲兵隊への召喚を受け、陸軍簡閲点呼の時に憲兵から訊問される。このあと長谷川如是閑が唯物論研究会を退会。
唯物論研究会は戸坂潤(その後逮捕され獄中死)や羽二五郎(映画監督羽二進の父)や長谷川如是閑によって作られた共産党講座派の政治団体。実質的には=共産主義研究会だが警察の摘発を逃れるために唯物論研究会にしたという。(戦前は共産主義活動は厳禁でマルクスを読んだだけで逮捕された) 長谷川如是閑は新聞記者の丸山眞男の父の幹治の同僚の新聞記者で共産主義を日本に紹介した。また長谷川はロシア革命の影響で日本に起きた共産主義民主化運動の大正デモクラシーの中心人物。眞男に多大な影響を与えたのはこの長谷川で眞男は政治からクラシックから歌舞伎から落語まで全部長谷川に習った。新聞記者らしく広く浅い知識を持った長谷川の影響が強すぎる丸山眞男の言説が『一知半解』と批判されるゆえんだ。
丸山眞男がマルクス主義者ではなく右翼で天皇を信奉していたなどというまったくのデタラメ説が流布されているが以下に示す「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」を読んでみよ。 いかに警察や五百旗頭眞(政治学会会長、現天皇の相談役、親がローマ法王に謁見、吉野作造賞、洛北高同窓会長髙坂節三の兄の政治学者髙坂 )らのキリスト教徒や東大のバカ学者が事実を歪曲しているかがわかる。丸山眞男がキリスト教徒で天皇制を支持していたなどという虚偽は、スターリンや毛沢東がキリスト教徒で天皇制を護持していたというようなもの。丸山が『ドストエフスキーが「私の信仰は懐疑(附注–神の存在に対する懐疑を指す)のるつぼの中で鍛えられた』と書いているのは丸山がキリスト教徒なのではなく「旧制高校的スノビズム(俗物主義=西洋の知識人のように知ったかぶりすること)」でドストエフスキーやキリスト教を真似しているのであって、俺たちには丸山眞男自身の口で「神は存在しない」と断言したから「神の存在を懐疑した結果存在を否定してマルクス主義を選択した」という結果になる。しかし神を否定しマルクス主義者となると弾圧されるし出世はおぼつかなくなるのでそれを公言せす、俺たちだけに内緒でいちばん重要な部分を「スコラ学派が神の存在証明をさんざんやったが失敗した。だから神は存在しないし宗教に関心を持ってはいけない」と教えてくれたと思う。これは眞男の良心だと思うし感謝している。
『昭和天皇をめぐるきれぎれの回想』の中で丸山眞男は『戦後の天皇の全国巡遊で民衆にたいし中折帽をとってバカの一つ覚えのように「あ、そう」をくりかえす猫背の天皇をニュース映画で見た』とか1923年に起きた皇太子(昭和天皇)暗殺事件の虎ノ門事件について書いている。これが発表されたのが昭和天皇の死後23日だということに留意せよ。本当に天皇を崇敬していたなら喪に服すべき期間に天皇のことを「バカの一つ覚え」とか天皇暗殺事件の虎ノ門事件の裁判で犯人の難波大助が「共産党万歳!」と叫んでいたとかプロレタリア文学作家で共産党員の小林多喜二が築地署の拷問で死去したことについて書くはずがない。そして眞男は結論として次のように天皇制を明確に否定している。『私は天皇制が日本人の自由な人格形成ー自らの良心に従って判断し行動し、その結果にたいして自ら責任を負う人間、つまり「甘え」に依存するのと反対の行動様式をもった人間類型の形成ーにとって致命的な障害をなしている、という帰結にようやく到達したのである』。大正天皇は軽い知的障害だった(といわれる)ので昭和天皇は皇太子時代から摂政宮として実質的に天皇の地位にあった。その皇太子を虎ノ門で難波大助がステッキに仕込んだ銃で狙撃した。銃弾は皇太子の乗った車のシートに命中したが無事だった。『昭和天皇についてのきれぎれの回想』で眞男はこの虎ノ門事件を最初にあげている。
昭和天皇の崩御(1989年1月7日)の23日後の1月30日に発表された丸山眞男の『昭和天皇をめぐるきれぎれの回想』(丸山眞男集に収録)の抜粋。
はじめからこういうテーマで書こうと思っていたわけではない。昨年秋以来の昭和天皇の「御不例」と、それにつづく「自粛の全体主義」について、私も内外のジャーナリストからインタヴューあるいは執筆依頼の攻勢を受けた。事情を知っている人なら別として、相手が外国の特派員などの場合、日本のマスコミ状況ではすべてを引き受けるかすべてを断るかの二者択一しかなく、自分の健康状態を考えると、後者の態度をとらざるをえない、ということを納得してもらうのはなかなか難しい。何で古希をとっくに過ぎた老人をひっぱり出さねばならないのか、とボヤいても通じない。なかには日本の知識人の代表としてこの際「発言」しないのは無責任といわんばかりのフランス人の友人もいる。これには少々頭にきたから、こう答えておいた。「私は天皇および天皇制について書くことはすべて書いた。これ以上言うことはない。もし私がこの際、既刊書を絶版にしたならば、何故この際絶版にするかを問題にされても仕方がないだろう。けれども私の天皇及び天皇制についての考え方を知りたければ、天皇の戦争責任の問題もふくめて市場に現に流通している私の著書に述べてあるから、それをいつでも参照できる。なぜその度ごとに同じような“発言”をくりかえす必要があるのか」と。このようにしてマスコミ攻勢を撃退しているうちに、フト「’60」第14号のことが頭に浮かんで来たのである。「’60」に書くのなら波及効果のおそれも少ない。さりとて、真正面から今度の「事件」のことを扱うのは、なまじ感想が多々あるだけに気が重い。たとえば「自粛の全体主義」についてである。多くの論者が、昔の天皇制からちっとも変っていない、というような批評をするが、私にいわせればとんでもない、大変わりなのである。大正天皇「御不例」の折は、それが発表された10月から天皇死去のその年の暮までに、大見出しの新聞記事になったのは何回もなかった。毎日数回もTVで脈拍・血圧から下血に至るまで報道されるというのは以上に新しい現象であり、情報社会下の天皇制の変質を物語っている。第一、「下血」などというきたならしいことを「玉体」について語ることさえ憚るのが戦前の感覚というものである。当時は皇居前で病気平癒を祈って平伏する「臣民」の写真は何度か新聞に載った。けれども小さな村の祭りまで「自粛」するというような珍現象は私の記憶する限り全くなかった。言葉をかえていえばそのこと自体が柳田国男のいう「日本の祭り」の堕落—-そのショウ化—-を示している。病気の平癒を祈る臣民下の内面的な心情が失われるのに反比例して、あたりを伺いながら「まあこの際うちもやめておこう」という偽善と外面的画一化とが拡大したのが今度のケースなのである—-こういう調子で論じだすときりがないので、前稿および前々稿のつづきとして、回想に話を限定したが、それも息が続かず、今日の辞典までもってくることができなかった。’60の諸君の諒恕を請う次第である。
裕仁天皇についての私の最初の記憶は1921(大正10)年11月の摂政就任であったように思う。私は四谷第一小学校の二年生であった。大正天皇が脳をわずらっていることはそれ以前に民間に漠然と伝わっていた。それもはなはだ週刊誌的噂話を伴っていて、天皇が詔書を読むときに丸めてのぞきめがねにして見た、というような真偽定かでないエピソードは小学生の間でも話題になっていたのである。およそ神聖不可侵とされている対象が、まさにそのことゆえに卑俗なトピックの形をとってヒソヒソ話として伝えられる、ということは、ある意味では人間の本性に深く根ざしており、必ずしも天皇制の場合だけではない。したがって摂政というももの法的根拠などについてまったく無知な小学生にとっても、皇太子の摂政就任はそれほどショッキングな出来事としては映らなかった。むしろそれに比べれば関東大震災(大正12年)の惨禍からまだ日も浅い、その年の暮れにおこった「虎の門事件」の方がはるかに大きな衝撃であった。いうまでもなく、難波大助が摂政宮を狙撃した事件である。おそらくこれは小学校四年生の私に、皇室とは日本人にとってそもそも何を意味するのか、何故摂政宮がテロの対象にされたのか、という当時は答えの出るはずのない疑問を深く胸につきさしたはじめての出来事であった。私の父は当時読売新聞の経済部長をしていた。狙撃の直後に父がどういう話をしたかは記憶にない。ただ翌年の十一月に大審院が難波大助に大逆罪による死刑判決を下したとき、被告が「共産党万歳」–あるいは「共産主義万歳」だったかもしれぬ–と法廷で叫んで両手を高く上げたという極秘情報を、父が家庭で火鉢に手をあてながら語った折のこわばった表情は、今でもありありと脳裏に浮かんでくる。すでに震災直後に甘粕大尉による大杉栄の虐殺事件があり、また震災の翌日ごろだったか、「自警団」のテントの中で、知ったかぶりの近所の青年が「世間ではアナーキズムと社会主義とを一緒くたにして「主義者」などといっているが、この二つは非常にちがった思想だ」と、得意顔で説教をしていた。そこで、むろんそうした「主義」の実質的内容は理解の外にあったが、「危険思想」なるものが存在すること、またそうした「危険思想が」がどうやら日本の皇室とアンチテーゼをなすものらしいということは、漠然と私にイメージされていた。さらにその後の私の思想形成(というと大げさに過ぎるが)からふりかえってみると、この「虎の門事件」判決のときの父の一連の話のなかでもっとも長く印象として沈殿したのはつぎの点であった。すなわち、難波家は長州の名門で、父の衆議院議員、作之進はきびしい皇室中心主義の教育で大助を育てた、ということである。大助の行動はむろん直接的には、大震災後の社会主義者・共産主義者にたいする虐殺をふくむ官憲の苛烈な弾圧や右翼の暴力行為にたいするいきどおりに発していたが、遠因は彼の父の度過ぎた尊皇教育にあり、それがかえって逆の効果を生んだ、というのが私の父の解釈であった。その解釈の当否はともかく、事件勃発後の衝撃のはげしさは子供にさえ目を見張らせるものがあった。山本内閣の総辞職、警視総監・警務部長の懲戒免職、山口県知事の減俸処分、というような一連の当局者の処置だけでなく、父作之進は玄関に竹矢来を張って閉門蟄居の生活に入り、大助が卒業した小学校の校長と担当訓導とは、かくのごとき不逞大逆の輩をかつて教育したことの責任をとって共に職を辞したのである。私は以前にこの事件を例証として天皇制に対する無限責任—-無責任の体系はそのメダルの裏側である—-を論じたことがあるので、ご記憶の諸君もあると思う。重ねていうが、そういう考えを当時の私が抱いたわけではない。記憶をさかのぼるとこの事件の与えた強烈なインパクトに行きあたる、ということである。(中略)
時代史を語るのが本稿の目的ではないから。昭和7年の「満州国」建国、5・15事件(政党内閣の終焉)、翌8年の国際連盟脱退、佐野・鍋山ら共産党幹部の転向声明、—-というような時局の進展を順次追って述べることはしない。ただ天皇制と私とのかかわりについてすくなくも私個人の精神史にとっては決定的な意味をもった、私の本富士署への検挙事件については—-これまでも二、三の筆稿で触れたことがあるが—-やはりここで述べないわけにはいかない。
検挙のきっかけなどについては省略する。ただ、私は一高の寮内でもかなり熾烈であった左翼運動に実践的になんらかかわりをもたなかったにもかかわらず、特高の張りめぐらした網にかかった、という点だけを言っておこう。取調べの際に特高は私から押収したポケット手帖を机上に置いていた。そこには無数の箇所に赤紙の小片が貼付され、その一個所一個所について私は峻烈に訊問された。私にとってもっとも意外であり、また心外に思われたことは、特高が「貴様は君主制を否認しているな」と言ったことであった。(附言するが天皇制という用語は共産党は別として当時一般には用いられていなかった)。特高は手帖の中に私が書きこんだ数行を指してそう言ったのである。その数行にはドストエフスキーが「作家の日記」のなかで「私の信仰は懐疑(附注–神の存在に対する懐疑を指す)のるつぼの中で鍛えられた」といっているのを引用しながら、「果たして日本の国体は懐疑のるつぼの中で鍛えられているか」と書いてあった。私はすぐさま「それは何も日本の天皇を否認する・・」といいかけたら、言葉の終るのを待たずに特高は「この野郎、弁解する気か」といいざま、私にビンタを喰わせた。「治安維持法」の第一条は知られるように「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ組織シ・・又ハ結社ノ・・指導者タル任務ニ従事シタル者」に死刑・無期若しくは5年以上の刑を科し、「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者」に二年以上の有期刑を定めていた(これは1928年の緊急勅令による改正条文で、のちに1941年にさらに全面改正された)。治安維持法の運用の最大の問題点は、この中の「目的遂行ノ為ニスル行為」という言葉がいかようにも拡大解釈されることにあり、これによってパルタイとはまったく関係のない者にも適用される可能性が内包されていたし、事実そうなった。しかし私が特高の言葉にたいし、とっさに反論しようとしたのは、治維法を意識していたからではなかった。ドストエフスキーの言を引用したのは、いかにも旧制高校的スノビズムとはいえるが、当時の私には「国体」を容認する考えなど毛頭なかった。むしろ寄宿寮の中で便所の壁に「天皇制打倒」という落書を見たとき一瞬、生理的ともいうべき不快感に襲われたほどである。そうして私が釈放された後に、一年上級の知合いの左翼学生が本郷三丁目近くの飲み屋で「雪兎会」なるものを催してくれたが、その折の談話の中で私が向坂逸郎の論文のことに言及すると、その左翼学生はすぐさま「向坂なんてインチキ・マルキシストを信用してはいけないよ。第一、天皇制の問題をよけて通る学者なんてマルキシストでも何でもない」とつっぱねるように言った。私はそのとき違和感を覚えた。天皇制をハッキリ否認しなければそもそもマルクス主義を名乗る資格がない、というような厳格な定義は–私自身が自分をマルキシストとは思っていなかったということを別にしても—-私には縁遠かったのである。ただ当時の「思想善導」とか国体観念をなして、日本の「国体」がクリスト教のように「懐疑のるつぼ」で鍛えられる経験もなく、ただ頭ごなしに信仰として押しつけられるのはいかがなものか、という疑問であった。それがさきのようなドストエフスキーの言葉をわが意を得たりとばかりにノートに引用した次第である。ただそれだけのことであった。けれどもあとから考えると、このノート数行にたいする特高の激怒を「心外」に思った私の方がむしろ甘かった、といわねばなるまい。否定することと、否定をくぐって肯定することとの区別といった、ヘーゲル弁証法まがいの理窟はそもそも大日本帝国の「思想問題」には通用しなかったのであって、その区別の認識欠如は必ずしも私を取調べた特高の知的水準の問題とはいえないのである。
ついでに取調べについていうならば、「唯物論研究会」の講演会に出席した動機を訊ねられて、私は長谷川如是閑の名前を出して父との長い交友の由来を話そうとした。このときも私の言葉は特高のつぎのような怒号で遮られた。「馬鹿野郎、如是閑なんて奴は戦争でもはじまれば真先に殺される男だ」というのである。子供のときからなじみ深い如是閑の相貌がとっさに目に浮かび、ああ、あの如是閑さんが殺されるのか—-という思いとともにスーッと眼前が暗くなった。「殺される」というのは裁判で死刑になることではなく、虐殺を意味していた。現にプロレタリア作家の小林多喜二が築地署で検挙直後に「殺され」た時日は、そのときから遡ることわずかに一ヶ月そこそこであった。国家公務員が平然と「殺す」という言葉を口にできたこと、「国体」を否認する「国賊」は法の正当な手続きなどお構いなしに抹殺して差支えないというような考えが私のようなチンピラ学生を取調べた特高にとっても常識となっていたこと、はやはりこの時代を知るために忘却してはならぬ事実であろう。
(中略)
1940(昭和15)年6月に私は東京帝国大学助教授の辞令をもらった。むろん奏任官であるが、私には月給が助手時代の60円から一挙に120円にはね上がったのがいちばんうれしかった(ちなみにこの独身の助教授時代は世相はべつとして経済的にはわが生涯最良の日々であったといえる)。間もなく叙従七位という位記が届いた。浄土真宗の篤い信者であった母はさっそくそれを仏壇にあげて手を合わせた。父は一瞥するなり顔をあげてハハハと哄笑し「お稲荷さんにはまだ遠いな」といった。いうまでもなく稲荷大明神は正一位だったからである。はしなくも息子の官位とか出世にたいする父と母との対照的な反応がそこに現れていた。なお序(つい)でにいえば、この戦前の位記が戦後になってどう処理されたのか、無効になったのかあるいは形骸だけでもまだ存続しているのか、もともと私には関心のなかった問題だけに今でも不明である。御存知の方があったら何かの折に教えていただきたい、と思っている。
助教授になって霊験あらたかと感じたのは、助手時代にはまだ毎年の行事だった特高の来訪や憲兵隊への召喚がパッタリ止んだことである。理由はよく分からない。どこかで何らかの方法で監視されていたかもしれないが、少なくとも露わな形ではなくなった。のちに太平洋戦争勃発後に一度、憲兵隊に召喚されたことがあるが、これは流言蜚語容疑であって、どうも以前のブラックリストとは直接に関係なく、つまり「別件」によって呼ばれたもののようである。
さて、つぎの天皇とのかかわりは何といても皇紀2600年の祝典である。同じ年の11月にさまざまの行事が催されたが、このとき帝大に天皇の「行幸」があった。高等官には拝謁を賜うとあって、当日は父からフロックコートと山高帽を借りて出かけた。拝謁というと大げさだが、なにしろ帝国大学というのは、諸官庁のなかでもとりわけ高等官がワンサといるところである。指定された安田講堂に入って見ると、拝謁を賜う高等官で講堂はギッシリ埋まっていた。やがて時が来ると昭和天皇は海軍大元帥の軍服姿でゆっくりと壇の左手から登場し、中央で一同の方を向くと、私たちの最敬礼にたいし顔をまわしながら挙手の礼をもってこたえ、右手にまたゆっくりと去って行った。「拝謁」とはただそれだけのことであった。それでもある同僚は講堂を出るなり「御立派ですね」と感慨を洩らした。この同僚ほどの感激は私にはなかったが、たしかに従容として迫らざる威厳を感じたのはj事実である。すくなくとも戦後の天皇の全国巡遊で、民衆にたいし中折帽をとってバカの一つ覚えのように「あ、そう」をくりかえす猫背の天皇をニュース映画で見たとき、これがあの安田講堂なり運動場なりでじかに見た堂々とした天皇と同一人物であるとは、私には容易に信じ難かった。白馬にまたがる大元帥の陸軍軍服姿の天皇の写真はおそらく諸君も見たことがあろう。一体、天皇はあのピンと背筋を伸ばした姿勢から、いつの間にあれほど猫背になってしまったのか、というのが今日まで解けぬ疑問の一つである。
(中略)
この稿が意外にダラダラと長たらしいものになったので、いい加減にしめにしよう。配線の翌年二月頃に、私は創刊されたばかりの雑誌「世界」に吉野編集長の委嘱によって「超国家主義の論理と心理」を執筆し、これは五月号に掲載された。この論文は、私自身の裕仁天皇および近代天皇制への、中学以来の「思い入れ」にピリオドを打った、という意味で–その客観的価値にかかわりなく–私の「自分史」にとっても大きな画期となった。敗戦後半年も思い悩んだ揚句、私は天皇制が日本人の自由な人格形成ー自らの良心に従って判断し行動し、その結果にたいして自ら責任を負う人間、つまり「甘え」に依存するのと反対の行動様式をもった人間類型の形成ーにとって致命的な障害をなしている、という帰結にようやく到達したのである。あの論文を原稿用紙に書きつけながら、私は「これは学問的論文だ。したがて天皇および皇室に触れる文字にも敬語を用いる必要はないのだ」ということをいくたびも自分の心にいいきかせた。のちの人の目には私の「思想」の当然の発露と映じるかもしれない論文の一行一行が、私にとってはつい昨日までの自分にたいする必死の説得だったのである。私の近代天皇制にたいするコミットメントはそれほど深かったのであり、天皇制の「呪力からの解放」はそれほど私にとって容易ならぬ課題であった。実はそのことをいささかでも内在的に理解していただきたい、というのが、私の少年時代からの天皇をめぐる追想をかくも冗長に綴ってきた理由にほかならない。
(一九八九・一・三一)
(’60、第一四号、一九八九年三月、60年の会)
なお昭和天皇崩御の前年、多くの国民がそうしたように俺は皇居に天皇病気平癒祈願の記帳に行っている。激動の時代を生きた苦労人の昭和天皇を尊敬していたからだ。だから天皇のことを「バカの一つ覚え」と書いた丸山眞男とは立場が全く異なるし丸山思想を容認してない。
昭和を生きた我々には丸山眞男といえば左翼の中心人物で『九条の会』の主催者で教科書裁判の家永三郎と仲良しで眞男著の『日本の思想』は左翼学生運動の学生の革命の教科書だったと知っている。その丸山眞男が右翼で天皇制を護持していたなどという真逆の嘘の広める東大とキリスト教というものの謀略性の末恐ろしさを感じる。戦前に特高が文化・学問・世論を誘導し国民を戦争に導いたように、警察の誘導で極左の丸山眞男を保守だとすりかえる嘘に背筋が寒くなる。学問や学者や大学の無用性を痛切に感じる。
すでに公開済の丸山眞男を映した動画の聞き取りにくい丸山の発言に字幕を入れて再アップロードした
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