2024/5/13 10:45
今年3月に書いたWordPressの再公開。前出の動画『ETV特集 丸山眞男と戦後日本』で朗読された『昭和天皇をめぐるきれぎれの回想』(丸山眞男集に収録)。必要な人は読むように。『丸山眞男集』は大きな図書館ならどこでも置かれているので買わないように。この文章の最後に丸山眞男が天皇制を否定する部分がある。これは昭和天皇が死去した24日後に書かれているので、丸山の天皇制存続の是非に対する意思表示がなされている。全体の昭和天皇に対する嘲笑的な論調から、丸山眞男が『天皇を崇敬していた』人物とはとても思えない。
次。1961年、深沢七郎の小説『風流夢譚』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E6%B5%81%E5%A4%A2%E8%AD%9A
が皇室を冒涜し不敬にあたるとして出版した中央公論社の嶋中社長宅に右翼が侵入し嶋中の妻と間違われた家政婦が惨殺された事件がある。これについて丸山眞男が書いた『右翼テロを増長させるもの』。警視庁公安部やアムウェイやトンスル大内純子が広めた「丸山眞男は右翼で天皇制の支持者」の言説はバカげている。丸山家では赤旗を購読していた。眞男はクラシック好きながらレコードファンでほとんどコンサートに行くことはなく小澤征爾のコンサートなど目もくれなかった。しかしソ連のピアニストのスビャトスラフ・リヒテルの大ファンで来日すると必ず見に行っていた。(中村に連れて行かれた武蔵野市民文化会館と人見記念講堂でリヒテルを見に来た丸山眞男と会った) 眞男は「リヒテルのような才能は西側には存在せずソ連のアカデミズムだけが育成できる」とソ連を大絶賛していた。リヒテルは日本でも人気者だったが一風変わっていて自身が使っているYAMAHAピアノへの感謝からYAMAHA工場で労働者を集めてコンサートした。また静岡市ではなく田舎の漁師町の焼津でコンサートを開いたりした。焼津が米軍のビキニ環礁水爆実験で放射能を浴びた第五福竜丸(夢の島に保存陳列されている)の母港で原水禁・原水協の左翼活動が活発だったからのようだ。
『右翼テロを増長させるもの』丸山眞男著(丸山眞男集より)
眞男が東大生時代に共産党の唯物論研究会の集会に出席して元富士署に逮捕された事件について書かれている。(戦前は共産主義活動は非合法)そのときの講師は長谷川如是閑。眞男の父丸山幹治(大阪朝日新聞・大阪毎日新聞記者)の同僚長谷川如是閑は眞男の人生の師というべき人物で眞男は年少のころから長谷川の家に出入りし政治や学問や宗教やクラシックや落語や歌舞伎に至るまで新聞記者の長谷川の広い知識を吸収した。長谷川は日本に初めて共産主義を伝えた人物としても知られ日本初の民主化運動『大正デモクラシー』の中心人物だ。大正デモクラシーは民主化運動だがソビエトがロマノフ王朝の皇帝を処刑して成立したロシア革命の影響が世界に飛び火して日本で起きたので民主化というより共産主義運動に近い。大正デモクラシーに共鳴した教師や武者小路実篤らの白樺派の作家が作った学校が明星学園であり眞男は自身の二人の息子をそこに通わせた。しかし元はといえば長谷川如是閑の影響だ。三鷹市の明星学園小学校体育館に今も残る最初の校章はなんと『赤い星』だ。ソ連や中国や赤軍のと同じ赤い星だ。これで丸山眞男がマルクス・レーニン主義者であることが理解できるだろう。
丸山眞男は健志の自殺を受けて社交的ではなくなり関係者との交際を断っていたが吉祥寺東町2-44-5の自宅近くに住む作家の埴谷雄高とは親友のように交際していた。埴谷雄高はいわずと知れた共産党員のマルクス主義作家だ。また教科書裁判の家永三郎、社会学者の日高六郎とも仲が良かった。日高は日本赤軍の支援者で各国の捜査機関から危険人物と見なされ旅先のオーストラリアでビザが発給されず日本に帰れなくなった。そのとき「日高君を助ける会」で日高の帰国に尽力したのが丸山眞男だ。
丸山眞男の生前のまま保存されている吉祥寺東町2-44-5の自宅。
丸山学派にも政治学にも社会学にも明星学園にも丸山健志にも全く無関係な美大生の自分は中村恭己の運転手の立場で訪問させられここに駐車した覚えがある。「運転手の方もどうぞおあがりください」と誘われることを予想しての中村恭己の計略だった。
金持ちには見えない普通の家。左翼の家。家の半分を書庫が占めていた。眞男は都内随一の古本の蒐集家。ただし『日本の思想』を岩波書店から発売後は印税で金持ちになり下田に別荘を買った。この別荘に家財道具(レコードや本も)一切のスペアを置き、1年の1/3位は下田に住んでいた。いわば「母屋でメザシ、離れで焼肉」というべき丸山のライフスタイル。共産主義者だしね、資本家に見られちゃ困るので・・・・。
手前の赤い家は法政大で図書館司書の資格を取り卒業したが仕事に就こうとしない健志を見て眞男が「健志を自立させるには生活を分離することが必要だ」と判断して庭に建てた離れの健志の家。健志は『レコード芸術』の常連投稿者で眞男はその評論文に赤ペンを入れて添削するなどして評論家への道を応援していたが(中村が原稿の現物を持っている)、吉田秀和を痛烈に批判した健志の評論文を読んで「業界に入りたいなら小林秀夫の弟子で音楽評論家の第一人者の吉田を批判してはだめだ」とたしなめていた。ゆか里は「学者の息子が家でブラブラしてると困るんですよねえ。世間体が・・」(中村への言)といい、「就職するか精神病院に入院するかどちらかを選べ」と眞男とゆか里は命令したので健志は精神病院を選んだ。その前に次のような事件があったからだ。健志は父親の威光で顔パスになっていたみすず書房の図書室に明け方にどうしても入りたくなってしまってガラスを破って侵入した。当然警備員が駆けつけて健志は警察に引き渡された。眞男が警察に詫びを入れ健志を引き取ってきた。この事件で眞男は「健志を精神病院に入れるしかない」と判断した。
健志は精神病院の作業療法でホロビッツ像を作って中村恭己にプレゼントするなどしていたが退院後1ヶ月もしないうちにこの自宅で首吊り自殺した。保守的で妬み深くおバカな主婦にすぎないゆか里は精神科医の「退院できるということは何事にも意欲が湧いていますから自殺の意欲もでてしまってよくあることなんですよ」とイカサマな話に言いくるめられていた。
赤丸が丸山宅。右上が東京女子大。左上の正方形のビルが東電吉祥寺(武蔵野)変電所で下に伸びるのが送電線。この辺の人は送電線や変電所の漏洩電磁波なんて気にも止めていないが・・・・。抗うつ剤を飲んでいた俺の兄は変電所の真上の階のマンションで死んだので・・・・。
長谷川如是閑・丸山幹治は1918年に起きた筆禍事件=白虹事件の責任を取って勤務していた大阪朝日新聞社を退社している。「白虹日を貫けり」という表現が天皇の暗殺を暗示しているとして大阪朝日新聞社長が右翼に襲われ当局の言論統制を受けた事件のこと。その子が丸山眞男。天皇支持者の右翼であるはずがない。
『丸山眞男年譜』(丸山眞男集)の抜粋
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