ケミカル色(13:28)

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俺に作家という仕事や文学賞を強制し、このブログが「小説」「文学作品」だと世間に認知されるということは、同時にこのブログの内容が作り話であり事実ではないと世間に認知されてしまうことを意味する。「大石はブログでいろいろ書いているが全部創作した文学作品であって事実ではない」と言われてしまうことになる。このブログは事実以外は書かないドキュメンタリーでありジャーナリズムに属するが、それを「大石の人騒がせな作り話でした。妄想でした」と言われてしまうことになる。CIAやヨツや丸山眞男やアムウェイ中村恭己や大学が作家を強制してくる理由が眞(まさ)にそこにある。CIA・公安警察・皇宮警察(公安警察の出身者が多い)の数々の非道で違法な諜報活動の実態を詳細に記してきたこのブログを、小説という作り話だといいくるめるためにしつこく作家になるよう強制している。だから絶対に文学賞は受けない。絶対に作家にはならない。

きのうの聖教新聞。上村松園展と同時開催される「ピアノコンサート」の話題や「山本作兵衛展」の話題も書かれている。部落解放同盟系の障害者団体の山本真理のことだろう。紙面下の「灯台」の広告では「再発見、日本文化の歌舞伎と落語」と書いて中華演劇の歌舞伎を擁護している。
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きのう楽天の三木谷が尾身会長の人数制限を批判し、オミクロン株のことを「オミが・・」といって尾身会長を愚弄していたので、やはり三木谷が俺を攻撃しているとわかった。オリンピックのとき尾身会長の中止勧告を俺が支持していたからだ。

きのうの聖教新聞に、本当は恫喝や恐喝が得意の創価学会の暴力性がよく表れている。日本画(美人画)の上村松園の絵の解説で「女が画家になるなんて」と俺が女であるかのように書いている。昔「儲かりマンデー!」に出演し、「ヨーシこっち来い!オラオラ!」と声をかけながら犬を撮影した動画を公開して俺を嘲笑した三木谷と同じ類の、創価テイストの品の悪さを、「女が画家になるなんて」と書く聖教新聞に皆も感じると思う。

上村などの美人画のコレクターに元キャバレー王の福富太郎がいる。以前ブログに、「1990年に日経平均が38900円のバブル高値から暴落し2万円台に下がったとき、テレビ朝日の「トゥナイト」に出演したキャバレー王で株が自慢の福富太郎が、「下げの4倍返しでこんどは日経平均10万円だ!絶対に買いだ!」といったことを書いた。その後日経平均は7000円台まで下がり、そこを買った高齢者の投資家の大半が没落した。福富太郎はコレクターを続けていて美人画の蒐集では有名なようで朝日新聞がそれを伝えていた。福富の(女性)趣味をどうこう言うわけではないが、戦後の日本画というのは、特に美人画というのは俗に過ぎ、漫画の劇画を思わせる。何よりその色使いが原色系で派手なのが嫌い。著名な東山魁夷の絵でさえ、「こんな色は自然界に存在しない」と痛切に思う。しかし、戦後の日本画家がそれまでになかった「ケミカル系」の派手な色を使いだした理由はよくわかる。昭和40年台、父が鉄筋三階建ての自宅兼事務所のビル建設を注文し鈴与建設の設計施工で完成した。兄と俺の個室になった子供部屋につけられたジュータンとカーテンの色は鮮やかな緑や青で、最初は「うわー!」と喜んだが、次第にそのバケツの青を思わせる青や緑に不快感を持つようになった。緑色というのは濃淡がなく平面的だと不自然で不快に見えることを発見した。木の緑の葉には凹凸があり人間はそれを見慣れている。しかし自然界に濃淡(陰影)のない平面的な緑色は存在しないから不快に感じる。昭和40年代ごろ、ケミカル系(化学塗料)の原色のショッキングピンクやブルーシートの鮮やかな青の発色が初めて現れたが、今見ると不快だが、当時はもてはやされた色なのだ。視覚上戦前と戦後を画する最大のものは色の違いだ。戦前はカーキ色・黒・グレー・茶色などの無彩色の事物しかなかった。戦後に現われた化学塗料の鮮やかな色は、戦前の暗く貧乏な色を打ち破り新時代の到来を感じさせるものだった。だから最初は、その前に住んでいた木造住宅にはない子供部屋の鮮やかな配色に感動したし、岩絵具の伝統的配色を重視するはずの日本画家でさえ、ケミカル塗料を思わせる強烈な色を、ブルーシートのように平面的に塗った。当時は美しいと思えても、今になって見ると、やはり深みのない、落ち着きのない、伝統絵画の色でも自然の色でもない、不自然で不快な色に見えることを今では誰でも理解できるだろう。福富さんには悪いがこれらの戦後日本画の価値が今後上昇していくとはとても思えない。バケツを何個集めても財産にはならない。画家も食うためには「売り絵」を描く。昭和の時代は不自然で非伝統的でも鮮やかな絵がよく売れた。暗い無彩色の戦争の時代が終わって終戦を迎えた人々は色に飢えていたからだ。今は違う、物が有り余って飽食の時代だ。何を買うかではなく何を買わないかに人々は留意している。安っぽいガラクタを買わないよう注意している。キャバレー王(おう)とは、絵を描けない、美術を理解できない創価学会員の大(おう)内純子のことだ。(13:28)

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