まったく同じ(同根)にしか見えない京劇と歌舞伎の衣装と化粧

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京都の四条河原のほとりにある歌舞伎劇場の南座
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京都の歌舞伎劇場である南座は四条河原のほとりにある。河原乞食=歌舞伎役者であることをそのまま示している。歌舞伎界を示す梨園という言葉は、もともと中国の唐の玄宗皇帝が集めた芸人(楽士・役者)のこと。歌舞伎が中国由来であることを如実に示している。

江戸時代まで部落民は部落の将軍様というべき穢多頭(エタかしら、えがしら)の弾左衛門と非人頭の車善七の圧政を受けていた。市川團十郎(ガン治療でハゲになった人。青山学院高・日大芸術学部卒)自身が、歌舞伎役者がエタ頭弾左衛門の支配から離れて自由と興行権を勝ち取ったことを自慢げに述べていた。銀座の歌舞伎座では歌舞伎役者は絶対に客の使う表玄関から出入りしてはいけない決まりになっているそうだ。つまり「下賎の私たちはお客様の使う玄関を使うことはできません。裏口を使わせていただきます」という意味なのだそうだ。それにしては今は威張りすぎの梨園だというべきだろう。「歌舞伎こそ日本を代表する伝統文化」などと言わなければ歌舞伎を非難する気はない。俺のことを歌舞伎役者などという嫌がらせをしなければ、ただの大衆的な見世物に過ぎない歌舞伎についてどうこう言う気も暇もない。演劇評論も映画評論もやらないし芝居も映画も嫌いなのでまったく見てない。

梨園や河原乞食の由来はどの辞書にもでてるので、それすら調べず東大の映画評論家の蓮見の「歌舞伎こそが日本純粋伝統文化だ」をパクって静岡大付属中や静岡高や京都市立紫野高の生徒に広めたバカ兄(大石智巳)の知性も国語力も、とても天才などと呼べる代物ではない軽薄なものだったことがわかる。兄はだだの「文学ファン」「暇つぶしに読む読書家」であったに過ぎない。兄は学校の課題で文章を書いただけで、普段自発的にまったく作品(小説や評論や戯曲)を書いていなかったし、一度も文学賞にも応募していないし、県知事賞や府知事賞すらもらっておらず、兄に文学的才能があったと客観的に認められる事実がない。静岡大付属中の左翼の現代国語の教師に大江健三郎やサルトルを勧められて読んだバカ兄が、その教師に褒められたからといって、兄に文学的才能があったなどという例証にならない。何しろ学校の文集を除いて兄の作品がまったく残っておらず、今の人が読めないのだから判断できない。生前の教師の評価と、小・中・高・大全部別の学校だからほんの数年間しか兄を知らない学校の友人(証言がまったく信用できない)の噂だけで天才だったなどということはできない。それも最後は立教大どまりで・・。俺は27年間の兄を知っているし、写真などの遺品を大量に保管している。みんな兄が死んでから知らんぷりで、もう大石智巳の名前すらほとんど忘れかけていたくせに。俺が有名になってから、俺の才能が兄の影響に過ぎないとデマを流して個性をはく奪するために、中村と丸山の指示で、京都で兄をいじめていたやつらまでみんなで兄を褒めたたえて神格化。人間のクズ、ゴミ、丸山と中村とアムウェイと兄や俺の同級生と静岡と京都の田舎者と部落民とキリスト教徒と創価。

(京都府立一中(俺が通った京都府立洛北高校の前身だが学制が全く異なるので直接関係ない))卒の大正時代の夭折の画家村山槐多は作品(絵)が残っていたからこそ死後に世の人に優れていると評価された。芸術家が生み出した美術作品は本人とは別の人格を持った存在であり、その価値は芸術家の人生と切り離され永遠に存在し続ける。署名がなくても誰が描いたかわからなくても原始人の描いたラスコーの洞窟画は見る人に永遠に感動を与え、時空を超えて現代人に原始人の思いを伝え続ける。画家の伝記や偉人伝やストーリーが美術作品の価値を生み出すものではない。その人が品行方正でなくても破天荒の人生であっても教師の評価が低くても、優れた作品はいつか評価を得て永遠に輝き続ける。)

きょう12/4、近所の臨済宗の寺に座禅に行ってきた。座禅中にアムウェイとカトリックと思われる奇声を上げる子供(子供が多いのはカトリックの特徴)や車両や工事音で妨害されたが集中できた。禅堂に入るとき隣にヨガマットを持ち込んで座ろうとする冒涜者の白人とその妻もいた。キリスト教徒の嫌がらせだ。キリスト教右翼のアムウェイがまた俺のことをキリスト教徒だとデマを流しているとわかった。どんなに騒いでも近所のエキサイトなどのマスコミを使って俺を攻撃しても、中村恭己・雅俊と丸山眞男・ゆか里・健士の偽物日本文化に俺の座禅はこれっぽっちもまねできない。

以下、ネットの辞書から引用
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梨園:「演劇界、劇壇の意。中国、唐の玄宗(げんそう)皇帝は音楽を愛好して、宮廷の楽人の子弟300人を梨園に集めて自ら教えた。これを梨園の弟子(ていし)という。宮廷内の梨(なし)を植えた庭に教楽府が置かれたのは714年(開元2)ごろのことであるが、後世演劇の始祖神に祀(まつ)られる玄宗にちなむこの「梨園」ということばは、やがて劇壇全体を称するものとなる。わが国にも伝わって江戸時代には主として歌舞伎(かぶき)界をいう雅称となり、昭和の初期までよく用いられていた。」

河原乞食・河原者:「中世日本の代表的な被差別民の一種。彼らの生業は屠畜や皮革加工で、河原やその周辺に居住していたため河原者と呼ばれた。当時は屠畜業者と皮革業者は未分化であった。河原に居住した理由は、河原が無税だったからという説と、皮革加工には大量の水が必要だからだという説がある。それ以外にも、河原者は井戸掘り、芸能(能役者、歌舞伎役者)、行商、造園業などにも従事していた。」

市川團十郎・市川海老蔵:「初代市川團十郎(幼名が市川海老蔵)の父は甲州出身で、異名を「面疵(つらきず)の重蔵」、「菰(こも)の十蔵」と呼ばれた侠客だったという。「菰の十蔵」というのは十蔵が非人出身なのでお菰(コジキ)の意味でそう呼ばれたものとされる。十蔵は甲州から出てしばらく下総国に住んだのち、江戸和泉町に住み着いたといわれている。近世初期には歌舞伎は長吏頭・弾左衛門の支配下にあった。しかし歌舞伎関係者は自分たちの人気を背景に悪辣な弾左衛門支配からの脱却をめざした。宝永5年(1708年)に弾左衛門との間で争われた訴訟をきっかけに、ついに「独立」をはたした。
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引用終わり

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