宮内庁は就寝中の洗脳と心理的拷問をやめろ。

宮内庁は愛子の押し付けと結婚の強要を目的とした就寝中の思考誘導・洗脳をやめろ。買ってある「紀文のおでんの袋に触ると愛子」の送信をやめろ。部落民でホモのネオナチの山本太郎の強要をやめろ。

クラシックのことを書いたからとクラシックや指揮者の強要やめろ。クラシックなんて繰り返しだけのゴミを聞くことは今後もありえない。おととい公園でプレスリーを歌ったがクラシックの曲なんてこれっぽっちもやりたくないしできない。クラシックは権威や見栄ばかりで愚劣だ。フルトベングラーとトスカニーニとどっちの演奏が良かったなんてことはどうでもいい。しょせん同じ楽器で同じ曲を繰り返すだけの音楽、大した違いはありえない。しかしファシズムを前にしてどう政治的にふるまったかは大きな違いがある。クラシックの演奏家なんで貧乏なキリギリスだから、ヒトラーに迎合してカネをもらうのは仕方がない。彼らは個人性に立脚した芸術家ではなく集団に属する職人だから。しかしカネも名声もあったフルトベングラーがヒトラーとナチを前にしたとき、それを積極的に受け入れてプロパガンダに加担したことは戦争犯罪以外の何者でもない。資産があり、良識的な指揮者ならば、ナチ下では演奏をやめるとか、アメリカに亡命して指揮する道があった。フルトベングラーはそれをしなかった。トスカニーニはそれをしたという違いだけだ。どういう演奏をしたかなど問題ではない。しかし巨大な鍵十字の前で指揮することが、異常だと思わないことは重要であり、フルトベングラーの教養と人格の低さを如実に表わしている。そういう猿みたいな人間でも、同じ曲を演奏するクラシックという甘い世界では通用するということだ。(フルトベングラーはほとんど発言してない。ただ指揮するだけ)鍵十字をオウムのマークに変えてもぴったり適合する。破産したソ連のオーケストラ・キーレーンを買収して指揮した麻原のような邪悪さをフルトベングラーに感じる。どう演奏したかなど問題でない。しかしヒトラーの片腕として指揮をした事実は歴史に残る。ナチのコラボレーターの指揮者として永遠に残る。フルトベングラーにロクな録音はなく、本当に優れた演奏をしていたかどうかなど確かめようがない。丸山のようなマニアックなレコードオタクがそういっているだけだ。丸山はフルトベングラーの生演奏を一度も聞いていない。レコードで過度な期待を持った丸山が、フルトベングラーに対して抱いた妄想であった可能性が強い。丸山自身が書いていることだが、丸山の高校の友人で在ドイツの外交官をやっていた友人との話でフルトベングラーの話題がでたとき、その外交官に「何?フルトベングラー?俺はドイツで何度も見たぞ。別に普通だったぞ。お前がいうほど大した演奏じゃなかったぞ」と言われて愕然としたという。ごく限られたマニアがギャアギャア騒いでいただけで、世間一般でフルトベングラーだけが大人気だったということはありえない。ロックの曲を巨大なPAの真ん前で聞けば離れた場所と音量の違いもあろうが、楽譜通りに演奏しなければいけないクラシックで、同じ曲を音量の乏しい同じ楽器で聞いて、そんなに感動するとかしないとかの違いを感じることはありえない。「伝説」というマニアの作った妄想を、一度もフルトベングラーを聞いたことのない後人が広めているだけで、今ろくな録音が残っていないのだし、クラシックはレコードを聞くことではないのだし、いつまでもフルトベングラーといっているのは実に不毛だ。単にネオナチが、本物の鍵十字の旗やナチの軍服を集めて信仰対象にしているのと同じように、フルトベングラーを信仰しているのであって、普通の人間がすることではない。

トスカニーニはイタリアを脱出してアメリカに精鋭を集めてNBCオーケストラを編成し、反ファシズムの演奏をした。だからイタリアではなくアメリカの指揮者だ。連合国の国歌をメドレーで演奏したのが、当時最新鋭のアメリカの録音と動画で残っている。戦争を前にして、鬼気迫る形相で指揮しているように見える。戦争はこうまで個人を駆り立てるものかと。そうせざるを得ないところまで個人を追い込むものかと。のんびりにドイツにとどまった軍楽隊の指揮職人のようなフルトベングラーと大きな違いがある。

(別に指揮者だけが必死だったのではない。ファシズムにどう立ち向かうかで、皆生きるのに必死だった。俺の父もだ。生死がかかっていると人間は必死になる。いつ死ぬかもしれない状態に置かれると、人間は究極の判断をする。ファシズムは人間の個人性の奥深くまで侵入し、個人を国家の道具として徹底的に搾取する。俺が今、宮内庁と皇室にされている人権侵害と拷問と知的搾取とまったく同じことだ。国家権力が極大化したのがナチでありファシズムだ。それを本当に容認していいのか、ネオナチ化した皇室を容認していいのか、各人がよく考えるべきだ。天皇制を最も必要としているのは、常に警察と軍隊と政府でしかありえない。)

(俺も変わったよ。皇室と宮内庁と政府に徹底的に弾圧されて、財産も才能も尊厳も、すべてを奪われて、生き残るために、強くなったよ。昔の俺じゃない。わかるな、大内、井川、東海大。幼稚だよお前ら、まだクラシックとか作家とか、いつまで学生やってんだ。)

この過程は、アメリカに最優秀な学者やユダヤ人学者を集めて原爆製造に成功したオッペンハイマー計画の過程に似ている。ナチが先に原爆製造に成功していたら、世界は終わりになっていた。(この重大性に比べたらクラシック演奏などどうでもいい)すべてにおいて民主主義・多民族主義のアメリカが勝利し、戦後の空前の繁栄を迎えた。しかし第二次大戦で疲弊したヨーロッパは没落の道をたどり、芸術の都だったパリも、その地位をニューヨークに奪われた。今また民主主義と多民族主義の勝利の確定を覆すような、ナチの亡霊を蘇らせるような、フルトベングラーとワーグナーとクラシックに対する「信仰」に、非常な不快さと愚かさを感じる。全体主義と民族主義は、絶対に民主主義と他民族主義に勝てない。

小澤征爾がアムウェイが公式スポンサーとなった長野オリンピックで指揮した事実も、フルトベングラーと同様の愚かさと責任がある。アムウェイはそれまでに国会で追求されるなど問題企業として認知されつつあったが、「小澤さんが認めたからアムウェイに入ってしまい人生を潰した。自殺してしまった」人が多い。小澤が芸術家ではなく単なる「音楽バカ」であっても、有名人が犯罪に加担することは許されない。責任を取らなければならない。小澤の経歴はアムウェイ指揮者として永遠に残る。アムウェイもナチも、その残忍で凶悪な正体を隠すためにクラシックを利用した。どう演奏するかではなく、それら引っかかり宣伝に加担する指揮者がバカで無責任であり、淘汰されなければいけないというだけだ。

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