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ブルーバックは長手に見せてもらったCGを撮るNHKスタジオの背景のこと。紫がかった青で印象的だった。「総天然色」「マテリアリズム」の表現をとってみても自分が美術に関心があったのは明白だ。作家(文章表現)など全然興味がなかった。自分はまだ手垢がついていない未知のメディアだからこそパソコン通信に強い関心を持った。文章ではない。丸山眞男やゆか里に「作家にさせてください。芥川賞を取らせてください」などと一度も言ってない。勉強ができる生徒なら、ある程度の文章を書けるのは当然と思う。文章がうまいとか自慢するほうがおかしい。パソコン通信に限らず、美大生のころから、当時現れた家庭用ビデオデッキなど、常にハイテク機器の表現の可能性を追求してきた。その新分野の第一人者になるつもりだった。オールドメディアの最たる本や文学などに関心を持つはずがなかった。既存メディアになぞなんの自由もないことをよく知っていた。まったく新しいメディアだからこそ、業界規制にすぎない放送禁止用語もタブーも存在しないのであって、ニューメディアでの表現は、世の中を変える可能性があると、熟慮のうえ実験的にしたことだ。まだダイヤルアップ接続時代のパソコン通信では、文字しか送信できないから文字で書いたのであって、動画がアップできれば文章なんか書かなかった。当時の通信速度2400bps(0.24Mbps)で1Mの写真すら送れなかった。FAXや壁新聞に似ているが、地域が限定されず世界中に同時に送信できるのが画期的だった。(インターネットでNifty-Serveに入ることができたが、まだネット回線料金が高く、大学や公共機関でしか使っていなかった)ノートパソコンやHP200LXのようなPDA(電子手帳)があればどこでも読め、速報性で新聞を凌駕していた。パソコン通信が出現する以前は、人は文章に限らずなにか世間に向けて表現をしたければ、新聞・文学・学問・テレビ・ラジオなどの業界に入らねばならなかった。今ではSNSやブログで誰もが普通になった文章表現を、独占していたのはこれらの業界人だ。だから「大石が何を書こうが公開できるはずがない」とタカをくくって業界にあぐらをかいていた丸山眞男・ゆか里は、文系バカでパソコンもパソコン通信もまったく理解できず、俺の書いたことが世界に広まってしまおうなどとは思いもよらなかった。痛恨の極みとなったのかどうかは知らぬが、この年(1995)の8月に丸山眞男は亡くなった。しかし、Nifty-ServeではFTVA(テレビフォーラム)のほかに、後年著名となるFSHISOU(現代思想フォーラム)、FSHIMIN(市民(運動)フォーラム)という丸山の専門分野を扱う会議室もすでにあり、丸山がパソコンがわからないでは済まされなかったのだ。

(FSHISOU(現代思想フォーラム)には若手の学者が運営に関与していた。今は著名になったはず。「えふしそ」の名はパソコン通信外でも一般的になった。他にFKINYU(金融フォーラム)があり、「ぼぶ・べっく」氏など、発言者の多くが証券や銀行の社長にに出世しているという。FSHISOやFKINYUのログも今手元にある。現代思想フォーラムをめぐっては訴訟が起きているので検索のこと。「丸山眞男」など彼らの格好の話題だった。自分のことが書かれているのを知らなかったのは、クラシックのSPレコードという古物をいじっているだけの象牙の塔の住人で文系バカでパソコンがわからない丸山眞男本人と、ジジイの文系学者や石原や大江という文学の権威だけだった。すでに時代は変わっていた。現在一般的になったライトノベルという言葉はNifty-ServeのFSF(SFファンタジーフォーラム)で発生した言葉。俺はまったく興味がなかったのでFSFを一度も見てない。俺はインテルの486に続くPentium(586)を載せた最初のパソコン、Gateway2000のP5-90(Pentium 90MHz)を自分でクロックアップ(改造)したのを使っていたので、Gatewayフォーラムやインテルフォーラムはよく見ていた。すると最新鋭のPentiumにバグが存在するという情報がNifty-Serveで広まり、大騒動となってインテルに批判が集中した。結局インテルが送料負担し全品交換に応じることとなり、逆に消費者の信頼を獲得した。パソコン通信の威力を痛感した事件だった。その後、95年末にWindows95が発売され、パソコン市場はウィンテル(WindowsとIntel)の独走時代となった。日本にもNECの9801やモトローラ(世界最大の無線・半導体・軍事会社だったが分社し消えた。モトローラ日本法人本社が南麻布にあった。現在Exciteやポリゴンピクチャーズが入居しているリージャス南麻布ビルの場所。)系のCPUを積んだシャープの68000やソニーや松下など家電各社のMSXパソコンがあったがWintelに完敗し消えていった。また理系の学者でも左翼系のアカデミズム(日本学術会議など)では「アメリカが生んだ」パソコンに注目していなかった。重化学や機械工業を重視したソ連ではCPU(中央演算処理装置)の開発を怠った。1991年のソ連解体時の騒乱を取材に来た西側ジャーナリストは電話やFAXや無線ではなくパソコン通信で記事を本国に送信していた。騒乱が終わって帰国するためにジャーナリストがホテルに捨てて行ったモデムを、ソ連人は何に使うのかまったく理解できなかった。ソ連は電子技術で西側に決定的に遅れ、米ソの軍事力のバランスが崩れ、それが冷戦の終結につながった。ソ連系の遺伝子を引き継いだ日本の大学やトヨタやホンダは機械工業重視(内燃機関とメカニカルな制御)を捨てきれず、EVで決定的に送れた。かつての日本のパソコンのように消えて行くだろう。)

(FTVA やFSHISOのFはNifty-Serveの親会社の富士通のFだといわれている。日商岩井(双日)と富士通の折半出資の会社だから。まだマウスもないDOSのコマンド入力の時代で、「go ftva」の入力でテレビ会議室に飛ぶことができた。)

俺は意識的に書いたことが広まるように、大衆に読まれるように、わざと笑いを取るように書いた。石原や大江の如き、純文学の小難しいだけの暗い内容など書いても誰も読まないし、「これ面白いよ」と読者が広めてくれないとわかっていた。広まって世界を変えなければ仕方がない。でなければ芸術表現として成功したとは言えない。

美術を専攻した俺は、満たされない性的エネルギーというものは、芸術作品を創造する原動力となることを誰よりも知っていた。だから計画的に、排泄するように書いた。その昇華作用によって、自分はこの燃えるような苦しみから解き放たれると信じていた。地球に杭を一本一本穿って、自転を逆回転させてやるぐらいの気持ちで書いた。そうして作品という爆弾を世界に投下した俺は、身軽になって、羽根が生えて、飛び立っていった。まだ若い33歳の俺は、このときもし書かなければ、衝動をどうにもできなかったかもしれない。だから良かった。すべて計画どおりだ。芥川・直木も文学も爆撃で潰した。「もう二度と書かない、作家などにはならない」と決意して書いた。だから、パソコン通信という新たな表現手段を開拓した俺の作品は完結している。一点の隙もない。最大の果実を受けたのは芸術の昇華作用によって成長し、中村恭己の家から逃げ出すことができた俺だ。文学界や出版界や思想がどうなろうがまったく関心ない。ブログやSNSやをしているだけで、作家などにさせられない、紙の本の出版などさせられない。文字は作家や出版社の独占物ではない。プログラム言語のような、自分が作った言語で著作権を主張するならいざ知らず、日本語の文字の所有権を主張するかのような出版社と作家は傲慢すぎる、暴力団すぎる。文字が紙に書かれるようになったのは、近代製紙法が広まった明治以後だ。それ以前は、木片や絹本や石版や粘土板や皮に書いていた。それらが捨てられたように、今、紙が捨てられ、電子メディアにとってかわられようとしている。

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