生まれ変わりなどではない。

俺は自分の意思(願望)とは無関係に大内兵衛の孫と丸山真男に会っている。また2者の預かり知らないところで、俺は2者に偶然会っている。

都立鷺宮高3年のとき、新宿の美大予備校(新宿美術学院・・移転したがビルが残っている)で他校の大内純子に声をかけ、一緒にその隣のウェンディーズへ連れて行ったのは俺だが、いわゆるナンパなので、その女が大内兵衛の孫だなどと知るわけがない。というか今も本当に兵衛の孫かどうか信じていない。交際中に一度も兵衛の話もマルクスや思想の話も出なかったからだ。そういう前時代の学生が好きなうんざりする話はどちらも嫌っていた。

丸山真男の名前が大衆にまで有名になったのは死後のことで、生前は学生運動の活動家や政治学の専門家を除いては知る者は少なかった。俺も全く知らなかった。中村恭己に会ってからすぐ「丸山真男って知ってる?」と聞かれたが「知らない」と答えた。恭己は「友達の丸山健士の親なんだけどさ、なんか世界的に有名な学者なんだって。でも健士がどう有名かを話してくれないから、何をした人物なのかがよくかわからないんだよね。それがわからないとジャジャ(中村が自分を呼ぶあだ名)は丸山真男の名前を利用できないの。「丸山」の名前を使ってわらしべ長者になるつもりだから。だからさ、大学に行っているのはアツミだけだからさ、丸山真男が何者なのかを調べてきてくんないかな?」と頼まれた。

まだインターネットがない時代なので、俺は区立図書館や本屋などで調べたがわからない。わずかに本屋に、牛乳瓶の底のようなレンズで太い黒縁のメガネをかけた気難しそうで険悪な顔で睨んでいる丸山真男の顔が背表紙に写ったみすず書房の政治学の論文集(「戦中と戦後の間」)が見つかった。ページを開いたが専門用語ばかりで全然理解できない。「ハロルド・ラスキって誰?E.H.ノーマンって誰?どこの人?」と思った。

その後丸山健士が死んで、中村恭己と弟の雅俊(明星学園で健士の後輩)と、健士と同級生の友人の鈴木牧彦(当時上智大心理学助教授)、同級生の寺澤(中古ピアノ販売会社ピアノボックス社長)と、生前から恭己を通じて健士と面識があり友人になった中村ピアノ教室の古株の生徒の坂繁巳は健士の葬式に行った。(坂繁巳・・ヤクザっぽい少年が性的に好きな恭己が気に入って引き入れた大宮中の不良中学生。しかしピアノを教えたのは高校から始めたピアノが下手な恭己ではなく、その後セイホク社長になった坊っちゃんの井上篤浩)しかし、丸山健士と一度も口を聞いたこともないし、一対一で会ったこともない俺は連れて行かれなかった。行けば遺族に「健士とどういうご関係ですか?」と問い詰められ言葉に窮すからだ。丸山真男は健士の死因を世間に隠すため、葬式は広く告知されず、身近な親族と中村恭己たちごく親しい友人のみによる一種の密葬とした。丸山家は部外者の侵入を警戒していた。

恭己と丸山ゆか里は明星学園の生徒時代から面識があったが、恭己が真男と親しく話できるようになったのは健士の葬式をきっかけにしてだ。その後恭己は自分のピアノ教室の男子生徒たちを真男に引き合わせようとした。(ピアノ教室の実態は恭己のホモのハーレムだったので女子はほとんどいなかったし、暗にやめさせられた)生徒を有名人の真男に引き合わせ、こちらの関心を引き出そうとした。そしてその後「会いたかったなら300万出せ」などと言うためだ。(真男と会ってから、俺が恭己に本当に言われた言葉)恭己は真男と接触させて仲介料を稼ぐつもりだった。一種のお受験詐欺・入社詐欺にも似ていて「私は・・の校長先生(社長)をよく知っているので、**万円用意できれば必ず合格させます」というようなのと同じだ。その者は確かに校長(社長)を知ってはいるが、裏口入学(入社)させる権限はないというよくある詐欺だ。現実に恭己にどこどこに入社させてやるというような誘いはなかったが、将来何をやるにしても有利になる(従わなければ不利になる)ことをほのめかしていた。丸山がなんで有名なのかの正体を知りつつあった恭己は(丸山夫妻は真男の公的な顔を注意深く隠していた。俺達に見せたのはあくまで死んだ息子の友人に対する私的な顔だ。公私両方の顔が知られてしまうと、健士の死因で恐喝されるかもしれなかった。それが俺達を常に勝手口(裏口)から入れ、絶対に表玄関から入れなかったことの意味だ)、恭己は俺が丸山との面会料にビタ一文出そうとしないのをみて、今度は佐藤富栄を丸山真男・ゆか里に引き合わせた。佐藤は健士が死んだとき新潟県の小学生か中学生で、大学入学で上京してきた東京もよくわからない東洋大生〜日本信販(UFJニコス)勤務で、中村アパートの住人だった。丸山健士(恭己はダブりだが同じとすると健士は1945年生まれ)と18歳も歳が離れた俺(1963年生まれ)もそうで、もし高校生の俺が中年男の丸山健士と会ったとしても話が合うはずがなかった。佐藤も丸山健士と会ったことがあるはずないし、友達であったはずがないし、佐藤と丸山家ともなんの関係もなかった。なのに、俺を、「健士の生まれ変わりだ!生まれ変わりだ!」と決めつけ、俺の才能と能力と労働(相場予想など)を「自分たちの息子だから」と丸山家と創価学会が強奪し、著作物を奪ってその所有権を主張している。世間に認められないよう俺を徹底的に弾圧したまま、思考と視覚と聴覚の監視で奴隷として働かせている。

科学のみを信じなければいけないはずの東大工学部卒の共産党の志位までが、俺のことを健士の生まれ変わりと決めつけ、写真家の立木義浩(山口百恵の写真集で有名。=橘木=天皇の隣の「右近の橘」の意味)に撮らせた共産党のポスターで、志位は演歌歌手の大川栄作のマネをし、俺に「演歌歌手になれ。ガキとできるぞ!」の意味で嘲笑していた。志位と共産党の科学者は、公明党のバカと同様に「生まれ変わりはある。金正恩は金日成の生まれ変わりだ」(軽薄にも時代遅れのヘアスタイルを真似している。プレスリーの子供か?お前。)などというなら、輪廻転生の実在を実験で科学的に証明せよ。それが不可能な輪廻転生など、現実にあるはずがない。いや、文系でも東大の教師が、創価大の教師のように「輪廻はある」などと言ってはならない。俺が丸山健士の生まれ変わりだというならそれを科学的に証明せよ。創価のバカどもや糞のキリストと一緒になって、世論を動かして「健士の生まれ変わりだ!生まれ変わりだ!」とシュプレヒコールを叫んで、左翼のGoogle(=ゴーグル=健士。健士のシンボルマークがゴーグルとサンバイザー。一年中していた)(今も、ログインしないでもYouTubeを開くと「女性として生きる難易度の高さ」とお勧め動画が表示されてる)やYahooまでが俺を弾圧して、俺固有の人格と人権を蹂躙し窃盗するのをやめろ。疑似科学にすぎない社会科学や政治学や、文系学者ばかりで無能な日本学術会議や東大が、輪廻転生とか、真偽を証明できない迷信を、証明済みの科学の事実に混ぜるから、創価学会や糞のキリスト・小児性愛教カトリックの侵入を受け、大学も学校も教師も役所も皇室も日本全部が腐った。

中村恭己は丸山の名声を利用して、俺に引き合わせて俺からカネを引き出したかったが、丸山家は部外者の侵入を嫌ったため、恭己が連れて行こうとした人間で健士の友達でない者との面会を断っていた。(電話で断られていた)そこで恭己は一計を案じ、恭己を丸山の自宅に連れていく運転手として俺を連れて行くことにした。(「健士の家に高校の頃から出入りしたおともだち」の地位を存分に利用した恭己は真男に対して馴れ馴れしく図々しかった)ゆか里に「運転手さんだけ外で待たせておくのは悪いから、どうぞ上がってください」と言われることを予想しての中村の策略だった。事実うまくそのように事態は進み、俺は丸山宅にあがることを許された。しかし「運転手さん」であるから、自己紹介することもも許されなかった。丸山夫妻は「中村君の生徒さんで、健士の友達だった坂君の友達の大石君」(中村の「弟子」ではなく単なる生徒)とだけ理解していた。俺は明星学園の卒業生でもないし、健士にまったく知られていないし、中村君の生徒さんという以上に丸山夫妻も俺と接点を持ちようがなかった。だから、以後も丸山家の俺への無関心は続いた。しかし、有能な人物なら、若者の言葉の端々に才能を見出すことができただろう。若くても俺は他人とは異なる独自な話をしていたはずだ。その意味において、俺に全く関心を持たなかった丸山は、「どこの出身?どこの大学でなんの専攻?誰の弟子?家業はなに?」の形式ばかりで人物評価する形式主義者なので、素のままに近い状態で会った未知の俺を評価できなかったのだろう。形式としてクラシック以外の音楽は認めないし、それ以外のロックを一聴しても、丸山には「良さがわからなかった」のだ。それは対人関係において感受性が貧困で人物評価に疎い人間だということだ。丸山真男・ゆか里は、中村恭己という極悪人を、善人として見誤っていた。俺が1996年にパソコン通信でそれを書いたしたことで、策士恭己の悪の正体にやっと気づいた愚かなゆか里が、恭己に騙された恥から、逆に告発者の俺を攻撃し、自分たちの地位と権威を守るために、俺をあの手この手で抹殺しようとし、恭己の悪行三昧を隠蔽してきた。アムウェイに騙された被害者が、よく取る行動に似ている。自分を直接アムウェイに誘った知人を責めず、それ以外の者のせいにする。知人に騙された自分の愚かさにいたたまれなくなり、アムウェイを批判した他者を攻撃する補償行為と同じだ。

俺が自分の希望でも意思でも丸山真男と大内兵衛にも会っていないことがわかっただろう。丸山と大内は同じ進歩派左翼知識人として関係があったらしいことは丸山の死後に知った。丸山の吉祥寺東町の自宅そばのご近所に(吉祥寺レジデンシアの場所)、大内兵衛が学長だった法政大の法政高校があった。健士は法政大に進学したので、真男と兵衛は関係があったに決まっていると後になってわかった。しかし恭己や俺が大内兵衛に関心がなかったし、真男と恭己との一対一の関係でも兵衛の話は一度もでなかったし、恭己も俺も、真男と兵衛が交際していた事実を知らなかった。俺は真男・ゆか里に自己紹介してないし、彼らは俺に才能を認めなかったし、1996年にパソコン通信(Nifty- Serve)で俺が書くまで、俺が何者かも調べようともしなかった。だから、俺が大内兵衛の孫かもしれない人物と交際していた事実など真男・ゆか里は知るよしもなかった。進歩派知識人の丸山の「お仲間」の大塚久雄や桑原武夫が通った京都一中の後身の洛北高校に、俺がいたということも知らなかった。俺に関心を持って個人的に話をしていれば接点はいくらでもあったのに・・。しかし恭己が真男利権を独り占めしたかったので、俺が「中村先生の先生」の真男に直接電話することなどできなかった。恭己が俺から聞いてパクった話(曲やオペラの感想など)を真男に手柄話のように自分の意見だとして話して、真男に大層評価されていた。バカな学者だ。どの世界でも師が生徒の才能を盗んでおいて、生徒が認められないよう潰してしまうことはよくある。それに気づかないアホの真男。搾取とイジメの構造に気づかない。

丸山夫妻とは音楽の話しかしてない。それ以外許されなかった。政治や社会学や文学の話は一切していない。俺は真男の大学の政治学や社会学の生徒でも、朝鮮人の平田オリザのような、文学少女崩れのゆか里の生徒でもなかったからだ。あくまで「死んだ息子の学校の友達のピアノ教師の中村君の生徒さん」にすぎなかったからだ。

自分の意思とは無関係に、また偶然に、左翼の中心人物の大内兵衛の親族及び丸山真男と会ってしまった俺とは一体何者なのだろうか?

俺は、人智を超えた何かから、事実を見ること、それを歴史として後世に伝える役目を、運命として担ったのかもしれない。人の死を認めて、棺桶に蓋をして、本当にその人物が正しい評価を受けるようにだ。丸山と大内を冥界に送り、その嘘を暴いて二度と蘇らないようにするためだ。敗戦で「勝ち組」となった左翼のの大内兵衛・丸山真男の戦後思想と、創価学会と社会主義と共産主義が、戦後一方的に過大評価され、戦前の日本の伝統的な文化や価値観が失われてしまったことを世界に示して、戦後日本の間違いを正すためにだ。今こそ虚構と嘘に満ちた大内兵衛一派と丸山真男一派の息の根を止めなければならない。

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