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「東方紅」を聞いて、「クラシック音楽がネオナチのプロパガンダに使われる」の意味がわかったと思う。大仰で虚飾的なクラシックこそが向いている。特にワーグナーやベートーベン、ブルックナー、シュトラウスのドイツ人による音楽。演奏家やファンによく注意すべき。貧民のくせに車だけドイツ車乗ってるこのへんのバカとかも。エンジン技術の優位に依存したドイツ車なんてEVの普及で終わりだ、いずれ消える。トヨタもな。

ハンガリーのクラシック曲の送信やめろ。クラシックすべてがいらないと俺は言っている。常に政治に関連付けてしか存在しえないクラシックという愚劣で下等なジャンルがいらないと俺は言っている。東海のバカや創価民音や真光が熱狂するような政治音楽が、池田と同様に俗で、聞くに値しないと俺は言ってる。俺の怨敵を「丸山先生!」「池田先生!」と呼ぶ創価学会信者の大内がいらないと俺は言ってる。ベートーベンの合唱の「歓喜の歌」が俗で、歌謡曲以下の安っぽさなのに神格化されているのがおかしいと俺は言ってる。政治性を必要とする作品は、それだけ作品自体に価値と魅力がないことを如実に表している。またそういうものを好む聴衆や信者も、権威や見栄を好んでいる俗物にすぎないことを示している。作曲家と演奏家が、永遠に政治や宗教やアカデミーの権威から独立できない非芸術家であると俺は言っている。ただの楽師という職人すぎない。技巧ではあっても芸術ではない。技術者や職人は芸術家ではない。クラシックという音楽はすでに18世紀に終わっているジャンルであり、繰り返ししかやっておらず、それゆえ政治や評論や教育に依存して生きながらえてきたすぎない。政治や国家や権力者から独立して表現し得ない芸術は芸術ではない。創造を伴わない繰り返しだけの「再演芸術」などという芸術は存在しない。名画の模写は芸術ではない。繰り返しばかりでうんざりするクラシックも浪花節も歌舞伎も落語も、そこに技術があったとしても芸術ではない。形式という誰かが作った鋳型に自分を流し込むこんで再演することは、芸や技術の踏襲ではあっても創造ではない。無から有を作る創造を伴わない行為は芸術ではない。丸山眞男のいう芸術は芸術ではない。

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