丸山眞男集 別巻 年譜 抜粋
「1946年(昭和21年) 11月 長男彰が生まれる。」
「12月 この年の春、妻の実家(目黒区宮前町64番地)に転居。一軒に三家族(一時は四家族)が住む生活が、1952年6月、武蔵野市吉祥寺319番地に転居するまで続く。夏、食糧事情を考えて身重の妻が母の疎開していた長野県の実家(長野県更級郡青木島村字大塚983番地)に出産のためおもむく。」
丸山眞男の母親セイの実家=長野県更級郡青木島村字大塚983番地は被差別部落地区の青木島村綱島・稲里村田牧に隣接した村(町)で周囲がみな被差別部落なので丸山セイの実家の青木島町大塚も部落であると断定. 丸山セイは熱心な浄土真宗の信者.
全国部落調査
青木島村綱島 川中島村四ツ谷・今里 共和村篠ノ井岡田 稲里村田牧
全国部落調査に書かれた部落を地図で照合すると青木島町大塚の周辺のほとんどが部落. 付近が死者が累々とした川中島の合戦場であることと関係があるかもしれない. 丸山セイの実家の青木島町大塚は千曲川に挟まれた中洲の閉鎖地区で丸山眞男の父の丸山幹治の実家の清野からほぼ6Kmの位置. 丸山眞男の両親は長野県の同じ地域の部落民同士で結婚したことになる. 結婚差別は部落差別の典型なので部落同士で結婚することは非常に多い.
丸山セイの実家(赤丸)から丸山幹治の実家の距離
丸山眞男集 別巻 年譜
「1951年(昭和26年) 37歳 肺結核のため国立中野療養所に入院する。主治医新海明彦(第一高等学校の同級生)から左肺患部の焼灼手術を受ける。」
「1952年(昭和27年) 38歳 4月、病気回復し出講する。・・・・6月、東京大学教授等有志の「破壊活動防止法」に反対する声明」に参加。住宅金融公庫の融資と東京大学出版会、岩波書店から前払いされた印税により、武蔵野市吉祥寺319番地(現在の武蔵野市吉祥寺東町2-44-5)に新築移転する。」
以下は現在の丸山眞男の家(築71年)(武蔵野市吉祥寺東町2-44-5). ごく普通の平屋の木造日本家屋. 資料として当時のまま保存されているようだ. 教科書にも使われるベストセラーとなった「日本の思想」(岩波新書)を書くまでは丸山家は貧しかったと思われる. この家の半分を占める書庫の蔵書は隣にある東京女子大に寄贈された. 本の虫の丸山眞男は都内でも有数の古書(及び古レコード)の蒐集家だった. 眞男の小学生時代のあだ名は「ホンタクサン」.
「1918年(大正7年) 4歳 大阪毎日新聞の記事中「白虹日を貫けり」の一文が不穏当であるとして発売禁止(白虹事件)」
「1920年(大正9年) 6歳 兵庫県武庫郡精道村率精道尋常小学校に入学。・・・・巌谷小波の『こがね丸』を読む。のちに「私がいちばん感銘を受けた書物」にあげる。小学校時代を通じて、『真田重勇士』『霧隠才蔵』『猿飛佐助』などの立川文庫を読む。「ホンタクサン」が小学校時代のあだ名の一つ。」
(白虹事件は「白虹日を貫く」の表現が「天皇を暗殺する」と解釈され丸山幹治を含む新聞記者が弾圧された事件のこと.)
丸山眞男の正体 ソ連系共産主義革命家
「丸山眞男集 別冊 年譜」から
「1932年(昭和7年) 18歳 10月 唯物論研究会創立総会。長谷川如是閑が発起人を代表して挨拶する。11月、唯物論研究会機関紙『唯物論研究』創刊。以後、毎号読む。」
「1933年(昭和8年) 19歳 4月、10日、本郷仏教青年会館で開催された唯物論研究会創立記念第二回講演会を聴く。戸坂潤が開会を宣し長谷川如是閑が挨拶を始めるや否や、本富士警察署長から解散を命ぜられる。聴衆の一人であった丸山(眞男)は本富士署に検挙・勾留され、特別高等警察の刑事の取り調べを受ける。押収された丸山のポケット手帳のドストエフスキーの『作家の日記』を引用した国体に関するメモをめぐって、特高刑事からビンタを食らう。留置場の独房に戸谷敏之がいた。以後、思想犯被疑者として大学1年の4月には大学学生課から呼び出され、大学2年から東京帝国大学法学部助教授に任ぜられるまで、定期的に特高刑事の来訪や憲兵隊への召喚を受け、陸軍簡閲点呼の時に憲兵から訊問される。このあと、長谷川如是閑が唯物論研究会を退会。」 (国体=天皇)
長谷川如是閑は幹治の同僚の新聞記者で眞男は幼少時代から長谷川の家に足しげく通って学問や政治や音楽や映画や歌舞伎や落語に至るまで知識を吸収した人物. 人生で眞男に最も影響を与えた人物といえる. 長谷川は共産党がロマノフ王朝を打倒して成立したソビエト(ロシア革命)の影響を受けて日本で起きた共産主義民主化運動の「大正デモクラシー」の中心人物であり日本に共産主義を広めた人物でもある.
唯物論研究会は「資本主義は唯物論的に社会主義を経て共産主義に必然的に移行する」と説く唯物史観の研究会でその名は共産主義の実体を隠すための偽装であり実質は共産党講座派の政治団体. 戦前はマルクス主義や共産主義は危険思想とされ本を持っているだけで逮捕された. 唯物論研究会の創立者の戸坂潤はその後検挙され獄中死した. 丸山眞男はその同志. 日本人は眞男が逮捕された共産主義の革命家であることを知らなすぎる. 丸山の極左の面を隠し偉大な人物であるかのように有名にして利用しているバカ皇室(特に愛子と雅子)やトヨタのせい. それに何も言わない右翼の櫻井よしこ(生前の日高六郎と対立した)や愛子派の反日右翼の八木秀次. 「トヨタやアウディやポルシェを買うともれなく丸山思想とクラシックがついてくる. あなたも思想家. 」というバカの車屋.
「1933年 11月 長谷川如是閑が中野警察署に召喚される。・・・・第一高等学校文芸部主催の小林秀雄の講演を聴く。・・・・ナチスの政権掌握後、2月、小林多喜二が築地警察署で虐殺、3月、日本が国際連盟脱退、このころから築地小劇場で新劇を観る。(「リンゴ園日記」「火山灰地」「夜明け前」など)。」
(「夜明け前」部落差別からの夜明けを描いた島崎藤村の小説. 親鸞は部落でも救われることを説いたので浄土真宗は部落の信者が多い. プロレタリア作家でマルクス主義者の小林多喜二は摘発を逃れ各地を転々とし南麻布1丁目の称名寺に間借りしていたこともあるが日本共産党中央委員会に潜入していたスパイの特高警官に逮捕され特高部長の安倍源基(安倍晋三と同じ山口県田布施出身)・毛利基らの苛烈な拷問を受け築地警察署内で死亡した.)
称名寺(3/11撮影)
「1940年(昭和15年)、6月、東京帝国大学法学部助教授となる。7月、従七位に叙せられる。位記が届くと、浄土真宗の篤い信者であった母はそれを仏壇にあげて手をあわせ、父はハハハと哄笑し・・・・」
「1941年(昭和16年) 27歳 6月、独ソ戦開始。ファシズム対反ファシズムの図式が明確化。丸山は家でバンザイを叫ぶ。・・・・日本軍がマレー半島上陸・ハワイ真珠湾攻撃(大東亜戦争勃発)。研究室で「このまま枢軸が買ったら世界の文化はお終いですという」
(ファシズム対反ファシズム=ナチスドイツ対ソ連) (枢軸=ナチスドイツ、ファシストイタリア、天皇制ファシズム日本のこと) (南原繁=東大の研究者となった丸山眞男の政治学の師. 東大総長.)
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