ますぞえ

舛添要一が

『世界がトランプによってかき回されている。脅しで迫る『ディール』手法はヤクザも顔負けだ。経済的合理性も知性も無い。民主主義がこのような指導者を生んだことに愕然とする。民主主義の墓掘り人である』

といってるが俺のことだな舛添?手の込んだ脅迫をするヤクザはお前ら東大とカトリックだろ政治学者舛添要一。公認会計士の父の家が覚せい剤やってたヤクザだとかいっていいのかな将紀ちゃん。お前の母親の実姉だろう?俺の母親はバカだがアル中の親父を持つお前に父や俺がヤクザ呼ばわりされるいわれはねえよ。まあ藤枝から都内に移した兄の遺骨を藤枝に戻せと遺骨が教会のものであるかのようにいってるカトリックの一味に将紀も加わってることが舛添の「墓堀り人」発言でわかった。ゴミだな、お前の宗教。兄が立教大にいたからとキリスト教会が兄の遺骨の所有権を主張するのをよせ。俺が藤枝霊園の墓を掘ってバカ兄の骨を都内に移したから墓堀り人か。丸山眞男の墓を掘ったといいたいんだろ。民主主義を叫ぶ独裁者丸山眞男の正体がばれて本人も著書も埋められていくべき。俺という証人を社会的に抹殺して丸山の悪事を隠蔽し歴史を改ざんし業績を捏造して組織防衛してきたお前ら東大の政治学者やカトリックの自業自得だ。丸山眞男を埋めなければ俺が埋められたままだ。経済的合理性も知性もなくて株の予想もできないのは谷口将紀や舛添要一や丸山眞男や作家の庄司薫だ。谷口将紀は都内で開いた兄の葬儀に来なかった。谷口は神奈川県在住なので来ないのは関わりたくないからだろうと思った。

大石氏屋敷跡 · 〒437-1421 静岡県掛川市大坂708
大石氏屋敷 星川砦 長谷砦 畑ヶ谷西砦 畑ヶ谷砦 畑ヶ谷東砦 渥美氏屋敷 安威砦 余湖
大石屋敷

最近親の実家の掛川市を地図で見たところ祖父が住んでいた家の目と鼻の先に源義仲を先祖に持つ戦国武将の大石氏の大石家が今も存続していることがわかった。この大石氏屋敷は鎌倉幕府を開いた源頼朝の従兄弟にあたる源(木曽)義仲から数えて9代目の大石憲儀の子孫ですぐ近くに古戦場がある高天神城の戦いで大石義久・久末が徳川方に加わり戦後この地の名主となったという。大石家氏屋敷のから約100mの場所に祖父が開いていた呉服店があり祖父の自宅もそこから500mの地点にあった。大石氏屋敷のある前は昔軽便鉄道の駅があった場所でにぎやかだったと祖父から聞いている。祖父の家に帰省したとき周囲でよく遊んだ。しかしそれが大石家本家だとは今まで知らなかったので驚きだ。現時点で祖父と血縁があると証明できないが大石屋敷の大石さんにかつて駅前にあった「みどりや」(祖父の店名)の大石は親戚かどうか聞いてみればすぐわかる。この付近には大石が多いが大石屋敷の大石氏がこの地に根付いて名主となったなら一族が周囲に広まったことはありえることだ。まあ俺は大石屋敷の大石氏の直系ではないけれどルーツをたどれは源義仲を先祖に持つ武家の大石氏だということになる。

祖父の家の納屋(倉)には先祖伝来の2m近くある長い槍があって祖父はそれを見せながら「先祖は半農半武の武士で戦のたびにこの槍で戦った」と祖父に聞かされた。また「男の子だから教えておく必要がある」と近くの高天神城に俺を連れていき「ご先祖様がここで戦った」と聞かされた。だから大石屋敷の武家の大石氏と同門であるのはほぼ確実だろう。

東大と三笠宮らが4世紀に日本にやってきた渡来人で朝廷の役人となった漢人の一団に大石村主の名が見られることから俺がその子孫であるという虚偽を流布しているが武家の大石氏を否定し結婚を強制するための悪意のこもったデマだ。地下家(じげけ)という役人の大石氏と室町時代(14世紀)に現れた武士の一族の大石氏とは時代が1000年近く離れており両者はまったく関係がない。地下家伝(じげかでん)は朝廷の役人のみを記した書物だからそこに武士の大石氏が書かれていなくても当然だが大石といえば普通は武家を連想するのが一般的だ。今に伝わる古武道の大石神影流を創始したのは幕末の剣豪の大石種次だ。現代でも公認会計士や税理士や弁護士などのいわゆる「士族」が多い。大石氏が官人であるとか漢人であるとか皇族であるとかの説は東大や三笠宮や左翼やカトリックが流している虚偽の情報操作にすぎない。

俺が源義仲の子孫の武士の大石家の出身だとすると困るのが丸山眞男ら政治学者と東大とキリスト教の奴ら。奴らは超国家主義者とは武士の末裔だとみなしているからだ。これが谷口将紀らキリスト教徒や舛添が俺をヤクザ呼ばわりして排除しようとしている理由だ。明治維新で帯刀を禁止された武士が右翼や軍人や武闘集団となった例はある。

鎌倉幕府の成立から江戸時代の末まで約800年間武士の時代が続いた。天皇の時代となったのは明治以後のたかだか100年であって、歴史的に日本とは何かといえば武士の国であり日本文化とは武家文化のことだ。いわば日本国王とは将軍様のことであり朝廷の役人なんて京都御所にごくわずかしかいなかったのだから、大石氏が奈良時代から細々と役人をやり続けてきて室町時代に剣術を覚えて大名になったなどということはありえない。京都の皇族は幕府が設置した京都所司代によって謀反を起こさぬよう常に監視されていた。

掛川市の大石氏屋敷の前に得体のしれないキリスト教会があるのも(昔はなかった)皇室や東大やキリスト教や武士の再来を危険視するCIAの仕業だろう。祖父の菩提寺はこの近くにある鎌倉時代創建の臨済宗の寺で先祖の墓地もそこにある。多分大石屋敷の大石さんの墓もそこだろう。

高天神城の周囲を土方というが新選組の土方歳三の土方家はこの地から出たといわれている。高天神城の戦い以後徳川家康が関東に移封されるとこの地は山内一豊が治めた。関ケ原の戦いで山内氏は加増され土佐藩(高知県)移封となった。この際掛川の一部の領民が土佐に移ったという。19世紀に入り土佐藩参政の吉田東洋を攘夷派の土佐藩氏で大石神影流の使い手大石団蔵らが暗殺した。大石団蔵の先祖は掛川から土佐に移動した大石家であったようだ。東京都港区の南麻布には麻布山内家の屋敷があったが土佐の山内家の分家だ。

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました