バカ兄と清水の寄生虫

静岡と京都の兄の同窓生が口裏を合わせてバカ兄(大石智巳。清水区生まれ)のことを誇張歪曲して文学の天才だなどといっているが、生前の兄は学校の作文以外に小説も評論も、文学作品というものをまったく書いていなかった。東海大付属小~静岡大付属中~静岡高校~立教大文学部まで行ったのに一度も作品を文学賞に応募していない。作品を残さなかったし文学賞も取ってないから今兄が天才だったと客観的に証明できない。本当に文学の天才だと評価できるというのなら兄の作品を公開して本当にそうであるかどうかみんなで判断すべきで、金儲けや町おこしや俺を弾圧する目的で兄の嘘を広めている静岡市や京都市や作家や出版社を信じてはいけない。まったく作品を残していない兄は単なる本好きで小説家の端くれでもなんでもないのに、兄を神格化して、兄の読んでいたゴミの村上春樹や静岡高校出身の村松友視や斎藤孝(静大付属中、静岡高校で兄と同級。しかし兄の友達ではない)や時代遅れの森鴎外(今読む何の価値もない。文語ではない明治以降の日本文学は無価値であと数十年したら消える)を売る出版社が儲けるために、兄の短い生涯(享年27)をいちばんよく知っている弟の俺の証言をまったく聞こうとせず、たった三年同じ学校にいただけの渡辺久芳(アフラック勤務。実家は駿河区登呂(とろ)の渡辺モータース)、平口康成(ゲイ、実家は島田市のスーパー)、山梨秀人(興津で学習塾経営)、服部(滋賀医大卒の泌尿器科医)、工藤(親が共産党員で、「ホモミ(大石智巳のあだ名)はブルジョアだから本をたくさん買えて読んでいるだけだ」と批判した)らが、兄の虚像をみんなでいいように作って利用している。

自殺した丸山健士(丸山眞男次男)の葬式に行く前に「死人に口なしだから」と言って勝負服を着て葬式に出席し、眞男とゆか里の前で健士との関係をいいように作り話したアムウェイのホラ吹きが板についていた中村恭己。今や丸山眞男も中村の作った「ネオナチドイツ右翼の丸山眞男」の虚像が広まり実像は見えなくなった。眞に「軒を貸して母屋を取られた」ってカンジ。東大の学者先生が恥ずかしい。

バカ兄を神格化するのは、明星学園でみんなにバカにされいじめられていた精神分裂病の丸山健士を大天才だとか、自殺した人間は偉人だとか、精神病者は天才だとか、嘘を広めて利用したアムウェイ中村恭己の手法。どんな理由でも自殺した者は負け。人生の敗北者。日本人の作家の自殺礼賛は青少年にとって害悪。眠剤飲んで自殺しようとした太宰治(孫が太田春子)の小説なんて、そんなの昔新宿二丁目で売ってた「完全自殺マニュアル」とおんなじじゃんか。くだらねえ。太宰の「生きてきてすみません」なんて、「じゃ今すぐ死ねよ。お前が死ねば食料が増えて飢餓の誰かが助かる」と言いたい。自殺なんて今やネタにすらならない。自堕落を売った坂口安吾とかパフォーマンス自殺した三島も同じ。自殺を褒めたたえるな、叩け。自殺者はただの負け組、人生の敗残兵。自殺者を「おかあさんの真綿」でくるむような、甘っちょろい子供だましの日本文学。
人生は長生きしてこそ意味がある。それは人間は死ぬまで成長できるから。自殺する若造(三島や川端も)の小説なんて、セックスのことばっかりで、青臭くて今とても読めない。歳をとるということは、それだけ新たな地平を知って驚くということ。コロナなんて考えられないほどの感染症が広まったのも驚き。50年以上生きて初めて人類を脅かすこんな病気を知ったことは驚きであり、やはり長生きしなければ世界を知ることはできないと痛感した。

静岡高校文芸部誌に書いた兄の文章の「昼の明るさに夜の暗さがわかるものか!」の幼稚で青臭い一文も、兄が本で読んで気に入った言葉で、本のパクりで兄が考えた文章ではない。兄は立教大生のころには文学への関心をもう失っていて、電通に入りたいとか俳優になりたいとか、軽薄なことを言っていた。自宅の浜田山にある唐十郎劇団を見に行ったが、やっぱり強迫神経症で人前で演技することなどできないとわかって劇団テストは受けなかった兄。背が低いからジャニーズや四季には入れないといって、いつも女のようにウェスタンブーツを履いていた兄。背の高いジャニーズの沖田浩之にコンプレックス感じていた兄、女かよ。ブーツの兄は電車で異様で隣にいると恥ずかしかった。ポパイとかホットドッグプレスという浅薄なマニュアル本を読んで、似合わないショットのボンバー型の革ジャンを着て、スポーツ苦手で青白い虚弱なのに「トラック運転手になりたい」と夢物語りを渡辺にいっていた兄。電通も運転手も甘ちゃんの兄にできるわけがないのに。(イーロン・マスクが兄と同じ革ジャンを着てマリファナを吸っている動画を公開していた。マスクの嫌がらせだが兄の虚像が世界中に広まっていたことがわかった。寄生虫都市静岡。)

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