畜生!忙しいのにこんな面倒くさいことさせやがって!ぶっ殺してやる皇族!

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2007年に静岡新聞社から発売された「静岡県名字の由来」という本の大石氏の項目にデタラメが書かれている。「京都の応仁の乱で負けた貴族の藤原氏が、常陸国に流されたが、許されて京都に帰る途上、掛川市の大阪村(母親の生地)に逗留して、一子をもうけた。これが大石氏の祖先である」というデタラメの記述だ。(「常陸宮に許されて帰る」の暗喩)まず著者の「渡邉/三義」(/が入っている)という人物の得体が知れず、この本の略歴によれば「1928年(昭和3)沼津市生まれ。日大理工学部卒。静岡県技術士協会会長、静岡県環境保全協会副会長、現在東名綜合コンサルタント所長、(技術士、経営士、社会保険労務士)。発明協会会長賞及び静岡県知事発明賞等受賞。日本氏族連絡協議会評議員」と書かれているから、大学研究者でも歴史研究家でもない。「日本氏族連絡協議会」なんて聞いたことがない。なんで日大理工学部卒の技術士・社労士に歴史がわかるのか?こういう人物に平気で本を書かせる静岡新聞社がデタラメなのだが、俺が皇族の落胤であるかのような偽史を広めて、皇族と結婚させようとする宮内庁と皇族の工作だ。宮内庁と皇族は、俺を部落差別しておきながら、都合のよい嘘を作って結婚させようとする歴史捏造の手口があさましい。丸山眞男が右翼だという歴史の捏造と嘘もだ。それを容認する東海大や慶応や京大・東大と学会の醜さ。もう日本に学問も大学もいらない。全部皇族のバカ大の学習院化した。

掛川市大阪は東海道や宿場町から外れているから、旅行者が滞在したことはありえない。「貴人が当地に立ち寄って交わって一子をもうけた」というのは家系を捏造(粉飾)するための常套句だから、とても信じられない。著者の渡邉/三義は、この根拠になる出典を明示していない。静岡新聞社/静岡放送のある静岡市登呂(とろ)に住んでいた渡辺モータースの渡辺久芳(バカ兄の通った静岡大付属中の同級生。アフラック勤務。静岡市在住)のことだろう。

姓名の由来については、田舎出版社が出版したいいかげんな最近の本ではなく、国会図書館の「姓氏家系大辞典」が無料でネットで読めるので使うべき。それによると、やはり大石氏は漢族(中国・韓国人)とあり、皇族と近い貴族などではありえない。

まず大石氏という姓名は全国に11.3万人もいて、静岡県に特に多く32500人もいる。県内12位の最多姓でありふれている。小学校の教師に一人、中学のクラスメートに一人、学年で5人くらい大石がいた。どれも俺の親戚ではないが、あんまり多いので互いに問題にしない。その大石全員が貴族の末裔だとか、大石内蔵助と同族だとかは絶対にありえない。
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静岡市だけで6500人いる。(静岡市清水区2400人、静岡市葵区2000人、静岡市駿河区2100人、浜松市6400人、掛川市1800人、藤枝市2300人、磐田市2000人、牧之原市2300人)静岡県下では吉田町付近を根拠地にした海賊(吉田海賊)だったと思われ、同地の出身者には自民党議員だった大石千八がいる。
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「姓氏家系大辞典」大石の項目から

「漢族にして・・」
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「漢族にして・・」
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また驚くべきことだが、大石氏の一部は大内氏と同族とある。石見(島根)の大石氏に関しては、大内氏と同族なのは確実のようだ。以前から指摘しているように、大内氏は、来日した百済の王族の琳聖太子が祖先であると自ら家系図に称しているから、百済(任那)系の渡来人の一族であることは間違いない。

「大内氏流(大石氏) 石見の大石氏にして、その系図によれば、(大石)内蔵助良雄はこの家より出たるなりと。参考のために次にその系図を挙げん。百済琳聖太子 – 太子 – 大内正恒 – 大内蒔根・・・・大石内蔵助」
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「仙道村地方にては昔より赤穂大石はこの村出身なりとの伝説もありと。また濱田*伝にも、「防州大内介義隆(有力大名の大内義隆)滅亡のとき、その庶流当国に逃れ、畳石に居住し、その後大麻山に隠れ、子孫は仙道村に移りて、大麻山の大と畳石の石をとりて、大石と改め、世々村の黒正となる。**大内家の位牌を存す。大内内蔵助もこの家よりいでしという一説あり」
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「姓氏家系大辞典」大内の項目から

「大内」「しかるに大内氏は後世・百済王子琳聖太子の後裔と称す。何によりてしかるか詳らかならざれど・・明白なりと得ん。」「異国太子・日本に来降、・・北辰下降云々。(北斗七星・北極星が降ったという伝説うんぬん)因りてその所の名を下松浦という。(松浦氏は大内と同族)星を祀りて妙見尊星王大菩薩(妙見菩薩)社と称し奉り、もってこれを祭る。」
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「大内義隆記に「由来を申せば、百済王の王子琳聖太子と申せしが、日本周防国多々良の浜へ(周防氏も多々良氏も大内と同族)定居二年に来迎し、大内に住居し給い、・・・・民百姓を従え、武英をもって国を切り取ることつつがなく、次第次第に繁盛して、義隆に至るまで二十六代、年の数を数うれば、九百四十年とぞ、見えにける」」
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「大内氏流多々良氏も、最初は*利久牟王の後と言いしが、後にこの人を百済王とし・・」「大内系図には、「琳聖太子、太子は百済人なり。姓は餘氏、普義燕十二年丙辰、百済王餘映、好んで信を中華に通ず(好んで信義を中国に向けていた)」「琳聖本朝に来たり、船を周防国佐渡郡多々良浜に繋ぐ。琳聖の子を正恒という。帝之に多々良姓を賜う。これ大内の祖なり」
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大内と遊んでいたころ、「気が合うか合わないかは体臭でわかる。不快な体臭は自分にとって良くない人であることが多い。おーちゃんにはそれがない。」といったことがある。匂いというのは人智を超えた記憶を呼び覚ますようで、本能的に大内を選んだのかもしれない。

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