ノンキャリアの下っ端警官の出身大学で5指に入るのが東海大。日大・国士舘大・帝京大の次に多い。
1942年に東海大学を創立した松前重義は熊本県上益城郡嘉島町(かしままち)生まれ。東北大を卒業した逓信省(郵政省)の電波技官出身。戦前に大政翼賛会総務局総務部長を勤めた右翼。戦後、進駐軍(アメリカ)に「軍国主義的又は極端な国家主義的指導者」とみなされ公職追放される。しかし風見鶏で変わり身の早い松前は社会主義者に転向し、社会党右派から立候補して衆議院議員に当選し、電波工業系の東海大学を設立した。逓信省技官で電波行政に顔が効くことからFM東海(半蔵門にある現在のFM東京)を設立した。そのため東海大の卒業生には放送関係者が多く、元フジテレビアナウンサーで現明治大副学長で清水区入江南町の部落出身のペンキ屋(中村塗装店)の牛尾(中村)奈緒美もその一人。
野球や柔道に優れた他校の生徒を金でスカウトするのも東海大の特徴で、金メダルを取った山下泰裕(東海大相模高が九州学院高から引き抜き。現JOC会長)や、巨人軍の原辰徳の父の原貢(立命館大中退。福岡県三池工業高野球部監督から東海大相模高野球部監督)もそれ。松前にとって柔道や野球は学力に劣る東海大に生徒を集めるための格好の宣伝材料。(ただし静岡で盛んなサッカーはまるでダメ)社会主義者となった松前はソ連と非常に密接だったのも特徴で、米ソが一触即発だった冷戦時代に、俺が小2のときの担任の遠藤初江は、研修・文化交流目的でソ連に入国し、1ヶ月近く滞在した。まだ共産圏が「鉄のカーテン」(ソ連)、竹のカーテン(中国)に覆われてまったく見えず、渡航が厳しく禁止されていた時代のことだ。松前重義は1966年にソ連・東欧共産圏との文化・スポーツ交流組織「日本対外文化協会」(対文協)を、社会党右派の石原萠記らとともにに設立したが、これはソ連のKGBの運営する諜報(スパイ)組織であったことが判明している。こうもり政党の社会党右派は左右両方のスパイが特に多い。アメリカに亡命した元KGB工作員のレフチェンコは、KGBのエージェントの1人として、日本対外文化協会事務局長だった杉森康二(コード名・サンドーミル)の名前を挙げている。
松前重義の松前氏の祖にあたる蠣崎氏は、蝦夷地(北海道)を支配し、アイヌと盛んに交わり、倭人との交易を独占していた。一部のアイヌが蜂起した「コシャマイン(胡奢魔犬、コサマイヌ)の戦い」で、すでにアイヌとの混血が進んでいた蝦夷(えみし)出身の蠣崎氏は、アイヌとの混成軍をもって反乱軍に対峙し、これを鎮圧した。アイヌ征伐に功績のあった蠣崎慶広は豊臣秀吉に謁見を許され、主君の安東氏(蝦夷(えみし)の豪族)から独立し、蝦夷地(えぞち)=北海道・樺太の支配を確立した。蠣崎慶広は徳川家康に謁見しオットセイを献上し、家康にアイヌ語の地名の「マトゥマエ」にちなむ「松前」の姓を賜わった。以後蠣崎慶広は松前慶広と名乗った。これが松前氏の起源だ。東海大が早くから北海道に進出したのもこの縁による。松前重義は、北欧びいきなことでも有名で、特にデンマークにたびたび出入りしていた。海賊のバイキングや北欧先住民族に関心を持ち、東海大に北欧少数言語学部を設立した(現在は廃止)。東海大付属小の修学旅行先も北海道で、アイヌ白老部落でムックリ(口琴)を聞いた。後年同じような口琴が北欧少数民族に伝わっていることを知り、アイヌの血が流れる松前重義の本心がわかった。東海大附属小の卒業式にやってきた松前重義を間近で見たが、変わった風貌の人で、浅黒い肌で、酒に酔ったような二重の目が特徴的だった。
(卒業式に来た松前重義)
松前重義は息子たちをバカの東海大には行かせないことが学内で有名だった。長男の松前達郎は東北大卒の後、九州東海大学長、社会党参議院議員、首都大野球連会長、高野連最高顧問、全日本大学野球連顧問、対文協及び日本ブルガリア協会会長、FM熊本取締役、国際武道大理事長、東海大学理事長だ。次男の松前紀男は、東京芸大音楽学部学理科卒の後、ニッポン放送に入社。東海大教養学部長、北海道東海大学長、フランスのプロテスタント系大学のストラスブール大で学位を取得し東海大学長となる。スウェーデン社会研究所名誉会長。衛星放送WOWOW及びFM東京取締役。札幌コンサートホール館長。俺にクラシックを執拗に強制してきた張本人がこいつ。三男の松前仰は武蔵野市出身で早稲田大理工学部卒。NHKに入局。退局して静岡一区から社会党衆議院議員に当選。社会党シャドーキャビネット官房副長官、細川内閣郵政政務次官。北海道東海大学長。東海大短期大学部(東海大附属小卒業生の進む東海大一中の隣にある)学長。日本対外文化協会常任理事。
耳鼻科医の佐倉伸洋と同じく、東海大附属小と県立清水東高で俺の同級生だった竹内嘉苗(静岡大付属中・県立清水東高校・東京医科歯科大卒。現在東京都北区のかなえ歯科院長)の親族で、潰れた長銀総研のエコノミスト竹内宏と松前仰は共著で本を出版する仲。自分の会社の倒産も予想できなかったエコノミストの竹内。父と竹内宏はまったく面識がないが、立て続けに本を出版する竹内を評して「「私はいかにして自分の会社の倒産を予想できなかったか」の本でもだせばいいのにねえ」とバカにした。俺はまったく竹内宏の影響など受けていないし、竹内宏(県立清水東高同窓会長でもある)は予想が当たるエコノミストとして当時から世間でまったく評価されてない。俺は竹内嘉苗にも東海大付属小でも経済について何も聞いてない。俺の経済予想能力の横取りやめろ竹内。
俺は左利きのためか算数の問題を独自のやり方で解くことが多く、東海大附属小4年の頃、算数のつるかめ算の答案で、授業で習ったのは違うやり方で図を描いて解いた。すると答が合っているのに担任教師の大石裕次郎がバツにした。なんでバツなのか帰宅して父に訴えたところ、東海大附属小後援会長もやったことがある父は怒って大石裕次郎に電話した。「答えが合っているのにバツにするのはおかしいじゃないですか?」と問い詰めると、裕次郎は「いやー、竹内さんが授業で教えたやり方で解いたもんで・・」といった。父は激怒し「なんで竹内のが正しくてうちの子のがバツなんですか!竹内は何様ですか!」と問い正した。すると裕次郎は非を認め、正答にした。
(メガネのハゲが大石裕次郎。その左下が遠藤初江。右が大橋春雄)
東海大附属小で勉強のできる生徒は、内部進学せず外部の中学を選ぶのが普通だった。そのまま東海大一中→東海大工業高又は東海大一高(両校が合併して現・東海大翔洋中高)に進学しても、極端に学力が低下し、静岡市清水区の僻地にある東海大海洋学部にしか進学できないことが確実だったからだ。そのため俺は、兄と同じ静岡大付属中を受験したが不合格だった。竹内嘉苗も受けたが合格した。竹内も部員だった卒業間際の剣道部で、顧問の大橋春雄(駒沢大卒。焼津市の曹洞宗の坊主の息子)が、練習の最後に生徒を正座させて聞かせる講話で、「大石はきょうも他の部員とふざけていた。いつもそうだから付属中に落ちたんだっ!まじめな竹内さんはちゃんと合格している。」と皆の前で俺をなじった。ただでさえ生まれて始めての不合格で落ち込んでいたのに、大橋の話は傷口に塩を擦り込むようだった。卒業まで1週間もない春に受けた教師からの心理的虐待を忘れることができない。俺を見下した竹内も許さない。
その後親戚で静岡市葵区(旧静岡市)に住み、孫を静岡大附属小に合格させた疋野小百合(母親の実姉)の話を聞いて驚愕した。小百合は「えーっ!(静大)付属中を受けて落ちたの?あたり前だよ!付属小中は二人目の子(下の子)は合格させないことが内規にあるんだよ。それを東海の先生が知らなかったの?こっち(旧静岡市)の子はみんなそれを知っていて受験しないよ。だからうちの下の子も受験させないで市立小中に行かせたんじゃないか。敦っちゃんがどんなに勉強ができても受かるはずがないよ」といった。
確かに東海大付属小から静岡大付属中を受験した者で、兄や姉がすでに同校に入学している生徒は、ことごとく不合格になっていた。俺の学力が低かったわけではないということになり、安堵もしたが、やはり不合格はショックであり、東海の教師や隣町の公立中の受験情報も告知しない閉鎖的で未開な清水市に頭にきた。清水市(現静岡市清水区)の公立中生徒は静岡市(現静岡市葵区・駿河区)と違って丸刈りを強制された。清水四中に進んで丸刈りにされた佐倉は俺を妬んでいた。
メガネ店(アジョック疋野)の疋野小百合の疋野家は代々カトリック。小百合は静大付属中・県立静岡高・慶応大に進んだ疋野洋子の母。洋子は静岡高の野球部マネージャーで慶応大に進学した部員と結婚。静岡カトリック教会は静岡双葉学園の隣。法務大臣の上川陽子の母校。田園調布双葉出身の雅子と同じ双葉学園系。
大橋春雄の剣道部は元々武道部として発足し、剣道以外の武道も教えていたが、途中から入ってきた内藤正徳の親らの圧力で、剣道だけやる剣道部に変わった。草薙の公立小との対戦で俺は勝ったが、その他の学校との対戦で部員多数がボロ負けし、大橋の指導力不足を実感した。大橋は剣道が専門ではなかった。内藤正徳の父親は清水港の清水税関職員で計量の検数協会職員。剣道家ではなく剣舞ファンで日本刀を何本も持つ右翼。正徳も踊り(剣舞)はうまいが剣道はそれほど強くなかった。
東海大附属小の女子の制服はなんと男子と同じ赤いネクタイ。ソ連や北朝鮮の共産主義少年団のよう。東海大は北朝鮮の金王朝に似た松前独裁帝国。
東海大医学部付属病院は日本で最初に安楽死を断行した病院として有名だ。1991年の東海大学安楽死事件が有名だが、俺の記憶では、1970年代にすでに安楽死事件があったと記憶している。もともと工学系で、宗教と命の尊厳を認めない社会主義の東海大は、人体を機械と同等にみなす人命軽視の思想が甚だしい。人体に機械を埋設したり、脳と機械をつなげて操作することにも、何のためらいもないはずだ。今東海大はキリスト教系であるかのように偽装しているが、それはありえない。変わり身の早い松前が、「なんちゃってキリスト教」を見せているだけ。松前の思想は戦前からあくまでナチに似た(国家)社会主義だ。東海大付属小時代クリスマスを一度もやってないし、正月行事もやってない。盆もやらない。むしろ非宗教系であることを売りものにしていた。戦争が終わってまだ20年のことであり、戦争の中心思想になった神道について親たちはもうこりごりだと思っていたし、戦争に協力した寺院にもうんざりしていた。清水地区では宗教系の私立小といえばカトリックの星美学園(サレジオ)があったが、非宗教系を望む親は東海大付属小を選んでいた。東海大付属小剣道部の道場には神棚がなかった。
俺が母親に溺愛されたかのような情報操縦がなされているがそれはありえない。母が過保護にしたのは兄の方であり、兄につきっきりだったあまり俺を放ったらかしにした。幼児の俺の世話を全面的に家政婦に任せていた。家政婦はよく世話をし、俺も慣ついて、遠くの動物園にまで連れていってくれた。俺を動物と遊ばせている間、若い家政婦はその場にやってきた男と話をしていたようだ。