「丸山眞男集」別巻 年譜 

1941年(丸山眞男27歳) 6月、独ソ戦開始。ファシズム対反ファシズムの図式が明確化。丸山眞男は家でバンザイを叫ぶ。

1950年(36歳) 5月東京大学学生委員会委員となる。委員に山田盛太郎、岡義武、中野好夫、森有正、福武直ら。吉田茂首相が南原繁を「曲学阿世の徒」と非難。南原、「学問への権力的弾圧」と反論する。9日、次男健志が生まれる。7月、新聞社、通信社、日本放送協会を皮切りにレッド・パージ(赤狩り)が始まる。9月、吉田茂内閣が公務員のレッド・パージの基本方針を決定する。東大学生共産党細胞がレッド・パージが予想される教官の一覧表のビラを配布。文学部の出隆、渡辺一夫、森有正、中野好夫、法学部の川島武宣、辻清明、丸山眞男。川島武宣が、GHQ(連合軍総司令部)内の友人からえた情報として法学部の3名がレッド・パージの対象とされていることを伝える。横田喜三郎法学部長から自重を求められる。胸部の異常に気付き吉利和医師を訪ねる。胸部結核(左肺)が判明する。国立中野療養所で診察をうける。

1951年(37歳) 2月、肺結核のため国立中野療養所へ入院する。主治医新海明彦(第一高等学校の同級生)から左肺患部の焼灼手術をうける。9月、退院し自宅療養。丸山の担当する政治学政治学史第三講座は、東京教育大学教授家永三郎が代講する。

1960年(46歳) 5月1日、東京大学全学教官374名の「安保条約批准反対声明」に参加。15日、竹内好のもとめにより安保批判武蔵野市民のつどいで講演。風船デモに参加。19日、政府・自由民主党、衆議院に警官隊を導入して野党・与党反主流派欠席のまま会期50日延長と新安保条約を強行採決。24日、日高六郎(社会学者で日本赤軍の支援者)のもとめにより安保問題研究会・安保批判の会共催の岸内閣総辞職要求・新安保採決不承認学者文化人集会で「選択のとき」と題して講演(後に発表)。集会後、首相官邸までのデモ行進に参加。岸首相との面会を求めて上原専禄、清水幾太郎、丸山眞男ら50名の代表が、首相官邸内で5時間待つが会えず。31日、岡義武、山内恭彦、飯塚浩二、辻清明、丸山眞男らを発起人とする東京大学全教官研究集会で「この事態の政治的問題点」と題して講演(後に発表)。このころ、次男健志が通った東京女子大幼児グループ(幼稚園)の同級生の親として近くに住む三木武夫(その後内閣総理大臣)に、自民党脱党、新党結成を促すための説得を続ける。

1961年(47歳) 2月1日『中央公論』60年12月号掲載の深沢七郎の小説『風流夢譚』が不敬にあたるとして、右翼の少年が中央公論社社長嶋中鵬二宅を襲い、手伝いの丸山かねを刺殺し雅子夫人に重傷を負わせる(嶋中事件)。5日、思想の科学研究会評議員会の「嶋中事件に関する声明」に参加。18日、「右翼テロを助長させるもの」を毎日新聞に発表。この後しばらくの間、武蔵野警察所私服警官による丸山の自宅の警戒が続けられる。

1981年(67歳) 1月、「日本赤軍と関係ある」としてビザ申請を拒否された日高六郎夫妻の入国を認めるよう、オーストラリア政府に桑原武夫らと要請する。5月、気管支炎のため国立療養所中野病院へ入院。中国人文社会科学交流協会の招きで中国旅行。その間発熱し北京首都医院に入院。

 

ユージン・スミス展 (2026/3/17-6/7 於:恵比寿)

上村智子の子(1972)「MINAMATA」より

水俣を訪れた三木武夫環境庁長官を取材する記者たち(1972)「MINAMATA」より

怨の旗(1974)「MINAMATA」より

 

 

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