伝説的な数学者の志村五郎が丸山眞男を批判した「丸山眞男という人」を収めた「鳥のように」が近所の都中央図書館にあったのでここに公開する。丸山眞男体制を翼賛する論調ばかりの中で志村の丸山批判は貴重だ。漢文と中国の古典とクラシック音楽に詳しい志村は丸山の無知ぶりを痛烈に批判している。
荻生徂徠の研究であり「中国古典における異端の字義をめぐって」を発表している丸山眞男に漢文の知識がなかったという志村の主張は驚愕に値する。特に中国古典にある「春秋の筆法」の意味を丸山がまったく間違って覚えていたと、「一知半解」な丸山の知識を批判している。クラシックにも詳しい志村は丸山の薄っぺらなクラシックの知識を嘲笑的に批判している。
丸山をおだてて神格化しているクラシック界やキリスト教界の連中=サントリー学芸賞や吉野作造賞の受賞者や捏造論文で有名になった東洋英和院長で牧師の深井智朗が読んだら目を剥く内容だろう。しかし日本赤軍の支援者の社会学者の日高六郎や共産党員の小説家の埴谷雄高(吉祥寺の丸山の自宅近所の住人)を親友に持つ丸山眞男が、韓国の反共親米カルト統一教会の文鮮明と同列の「思想家」であるとか、天皇制を支持する右翼であるとかの大嘘を丸山の死後に広めている東京大学は罪深い。「東京雅子大学」化してしているからだろうが、皇室や宗教の介入を受けて学説を捻じ曲げる曲学阿世の国立大学はそれだけレベルが低いということだ。
志村は丸山との「モーツァルトに関する本は何がいいか?」の話の中で「小林秀雄はオペラについて何も言っていないからだめだ」といった丸山を「小林秀雄程度を相手にしているのはレベルが低いと言えるのではないか」と批判している。また朝鮮戦争で先に手をだしたのが南(韓国)であると信じている丸山について「現在日本で北朝鮮が正義の国で王道楽土だと思っている人はまずいないであろう。だから昔のことが分かりにくくなっているが、戦後かなり長い間、1980年頃まではそのような北朝鮮の優越性を信じている人が大勢いた。その時期にはソ連・中共・北鮮に対する根強い信仰があった。」と丸山を批判している。
まさにこの点が大石が強く主張している「丸山眞男は共産主義者だった」の主張と志村の主張が一致する点だ。丸山はソビエト・北朝鮮系の共産主義者であり革命家であったから、丸山眞男がキリスト教徒であったという統一教会らのキリスト教側の主張はまったくの虚偽だ。内村鑑三~南原繁~丸山眞男ルートを「キリストのみち、聖人のみち」と虚偽の歴史を捏造して神格化してあがめる東大や東洋英和や五百旗頭会長の政治学会の主張が100%虚でであることを志村の主張が証明する。最後まで革命の情熱を捨てなかった丸山眞男は、内務省(警視庁公安部の前身)で思想統制の仕事をしていたキリスト教徒の東大学長南原繁とは異なる。東大で丸山の政治学の師となった南原でも戦前の共産主義活動で逮捕歴のある丸山眞男に共産主義を捨てさせることはできなかった。これは最晩年の丸山がソ連のピアニストのリヒテルを絶賛し同時に「ソ連の教育システム=アカデミーが世界で最も優れている」と大石たちにいっていたことからもわかる。そして丸山眞男は昭和天皇の死去の20日後「昭和天皇のめぐるきれぎれの回想」を発表し「天皇制が日本人の精神構造に重大な障害をなしている」と明確に天皇制の存続を否定した。
丸山眞男著 昭和天皇をめぐるきれぎれの回想(抜粋)
この稿が意外にダラダラと長たらしいものになったので、いい加減でしめにしよう。敗戦の翌年2月頃に、私は創刊されたばかりの雑誌「世界」に吉野編集長の委嘱によって「超国家主義の論理と心理」を執筆し、これは五月号に掲載された。この論文は、私自身の裕仁天皇および近代天皇制への、中学生以来の「思い入れ」にピリオドを打った、という意味で ー その客観的価値にかかわりなく ー 私の「自分史」にとっても大きな画期となった。敗戦後、半年も思い悩んだ揚句、私は天皇制が日本人の自由な人格形成 ー 自らの良心に従って判断し行動し、その結果に対して自ら責任を負う人間、つまり「甘え」に依存するのと反対の行動様式をもった人間類型の形成 ー にとって致命的な障害をなしている、という帰結にようやく到達したのである。あの論文を原稿紙に書きつけながら、私は「これは学術的論文だ。したがって天皇および皇室に触れる文字にも敬語を用いる必要はないのだ」ということをいくたびも自分の心にいいきかせた。のちの人の目には私の「思想」の当然の発露と映じるかもしれない論文の一行一行が、私にとってはつい昨日までの自分にたいする必死の説得だったのである。私の近代天皇制にたいするコミットメントはそれほど深かったのであり、天皇制の「呪力からの解放」はそれほど私にとっては容易ならぬ課題であった。実はそのことをいささかでも内在的に理解していただきたい、というのが、私の少年時代からの天皇をめぐる追想をかくも冗長に綴って来た理由にほかならない。(一九八九・一・三一) (’60、第十四号、一九八九年三月、60年の会)
1996年にNHK教育で放映された丸山眞男の追悼番組「丸山眞男と戦後民主主義・第二回・永久革命としての民主主義」で、論客で活動家の安東仁兵衛は次のように語った。「先生のお立場をひとことで説明すると要するに何なんですか!」と丸山に質問すると「そうさな、民主主義の永久革命、いや永久革命としての民主主義かな?」と答えたと。これがNHKの追悼番組の副題となった。だから丸山本人が革命家であることを自認していた。だから丸山がキリスト教徒であったはずがない。「宗教はアヘンである」といったマルクスと同様に丸山は神も宗教も信じていない。丸山眞男は中村恭己や大石敦巳を革命家として育てていたのかもしれない。
これは1996年に信濃町の公明党本部の隣にある千日谷会堂(浄土宗一行院の葬祭会館)で開かれた「丸山眞男を偲ぶ会」に静岡からでてきて出席したときも思った。すでにこのとき中村恭己とは縁を切っていたので互いに別行動だった。すると向こうから平服の、それも腕と背中が大きく露出したゲイ特有のランニングシャツを着た中村恭己と中村ピアノ教室(その実はアムウェイ教室)のガラの悪い面々がやってきた。一応スーツを着て参加した俺は「自分もこんな集団にいたのか」と恥ずかしくなった。丸山は中村たちに例えばテロをやらせるために、自分たちを飼っていたのではないかと感じた。そのまま中村のところにいれば、丸山の政敵を実力行使で封じる仕事を命じられたかもしれない。そういう秘密の任務を担わせるつもりだったから、中村の家から脱出した大石を「脱走兵」だと丸山学派はののしったのかもしれない。
しかし志村五郎はなぜここまで丸山眞男を痛烈に批判したのか?それは丸山の死後にみすず書房から発刊された「丸山眞男書簡集2」の中でみすずの社長の小尾に宛てた書簡で丸山は志村五郎のことを「プリンストンの数学者は日本人が多く、「・・・志村[五郎]教授はプリンストンの看板教授です。(中略)先日も志村教授のカクテル・パーティに招かれて(中略)志村教授とダべりましたが、非常に趣味と関心が広い反面、自信過剰で、政治=社会問題について平気でピントの狂ったことをいい、「第一級の専門家でも、一たび専門以外のことを発信する場合は一言も信用してはいけない」というレーニンの言葉を思い出しました。」(同書p.62~63)と書いていたからだ。これを読んで逆上した志村が「鳥のように」を書いて反撃したのに間違いないだろう。東大を退官してプリンストン大に行った丸山の世話役がプリンストン大にいた志村五郎で家族ぐるみで親しく交際ていたようだ。その志村を裏で仲のよいみすずの小尾に陰口したのだから志村に反撃されても文句は言えまい。




























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